2017年10月18日水曜日

南蛮美術総目録

 『南蛮美術総目録』 市立神戸美術館 1955

『みなと元町タウンニュース』連載原稿のために図書館で借りた本。A5判、375ページ、美術目録なのに図版なし。紙は藁半紙。

 神戸兵庫の大地主で池長孟(18911955)という人がいた。先祖代々の財産を南蛮美術品蒐集につぎ込み、美術館を建て、公開した。神戸の年配の方なら葺合区熊内町にあった〈南蛮美術館〉を覚えておられるだろう。

池長は、植物学者・牧野富太郎を援助し、地元の考古学者の資料を保存するなど、芸術、文化を愛し、高貴なる者の義務を心得ていた人。戦災から美術品を守ったが、戦後莫大な税金を課せられ、コレクション散逸の危機に陥った。神戸市に委譲を決意、蒐集品を整理・分類して目録を作成した。51年、池長美術館は神戸市立美術館になる。現在南蛮美術品は市立博物館に収蔵されている。重要文化財がたくさんある。

表紙の絵は南蛮船。
 

 

 数年前に消えた本屋の書皮を思い出す。もう一枚あったが見つからない。
 
(平野)
『みなと元町タウンニュース』は元町商店街あちこちの設置ラックで配布しています。

 

2017年10月17日火曜日

昭和文学盛衰史


 高見順 『昭和文学盛衰史』 文春文庫 1987年刊

1956年から57年『文學界』連載、単行本(全2巻)は58年文藝春秋新社から。



30年前の文庫、よく焼けている。

 高見順(19071965)は福井県生まれ、作家・詩人。ダダイズムなど前衛芸術運動、社会主義思想の影響を受け、プロレタリア作家となる。治安維持法で検挙され転向、従軍。戦後は病を抱えながら作品を発表し、日本ペンクラブの活動や日本近代文学館設立に尽力した。70年、高見の遺志により詩人に贈る「高見順賞」が設立された。
 本書では高見自身の足跡と共に昭和文学史を回顧。
 大正末から昭和初め、全国で多くの文学同人雑誌が発行されていた。作家も既存の雑誌に発表するのではなく、友と同人雑誌を始めた。高見は島木赤彦の歌を紹介して、若き日の文学への思いを伝える。

《 我等の道つひに寂しと思ふゆゑにいよいよますます友を恃(たの)めり
  はじめより寂しきゆゑに相恃む心をもてり然(し)か思はぬか》

文学の友。

《この世に生を享(う)けて、ともに、文学の道を歩んで行く友である。》

高見は「寂しと思う心」に郷愁を覚えるが、礼讃するのではない。「偉大な文学こそ、我等の道ついに寂しと思う、強い孤独のなかから生まれる」と考える。
 しかし、資本主義社会では芸術・文学は商品である。プロレタリア文学が「文学を商品としてしか見ない資本主義社会の悪を衝いた」。
 同人たちが対立、抗争、分裂する。

《恃む友、相恃む文学の友と、いわゆるイデオロギーの相違ということで喧嘩別れをせねばならなかった。昨日までの友を今日は敵と呼ぶに至った。これは喜劇であったろうか。悲劇であったろうか。》
 プロレタリア文学の台頭は昭和文学史の重大事項だが、こちらも内部で対立、分裂が起こる。

(平野)

2017年10月12日木曜日

幕末明治人物誌


 橋川文三 『幕末明治人物誌』 中公文庫 1000円+税

解説・渡辺京二

 橋川文三(はしかわ・ぶんそう、192283)は政治学者、著書に『日本浪曼派批判序説』(未來社)など多数。
 
 

明治という時代を見ることなく倒れた人、権力から外れた人、思想家、軍人、文化人、政治家、結社主宰者ら。歴史の本流ではなく、どちらかと言うと敗者の側にいる人物たちを取り上げた論文集。吉田松陰、坂本龍馬、西郷隆盛、後藤象二郎、高山樗牛、乃木希典、岡倉天心、徳富蘆花、内村鑑三、小泉三申、頭山満。

《歴史は主役だけで動くものではなく、蔭には無数の脇役の働きがある。後藤象二郎は準主役であっても、いまの人には耳遠い存在だろうし、小泉三申も知る人ぞ知るにせよ、いまとなっては無名に等しかろう。松陰や龍馬のような超有名人にまじって、今日忘れられたような人物に光が当っていることも、本書の今日的有用性ということになろう。》(渡辺)

 西郷隆盛は維新の英雄として現在も人気がある。しかし、歴史家の評価は芳しくない。「征韓論」が侵略思想の源流とみなされること、大久保利通らに比べて近代国家建設に貢献していないこと、を理由にされる。

 西郷下野、西南戦争は、明治新政府が西郷の理想と離れた結果という意見も多い。

《しかしそれなら西郷が維新にいかなる夢を託していたかといえば、直接にはわかりにくいところが多い。ただもし幾分の飛躍をおそれずにいえば、西郷はそこにもっとより(、、)徹底した革命を、もっとより(、、)多くの自由と平等と文明(、、)をさえ夢想していたかもしれないのである。》

(平野)

2017年10月3日火曜日

幕末  非命の維新者

 村上一郎 『幕末 非命の維新者』 中公文庫 1000円+税   

解説・渡辺京二



初版は1968年角川新書。

村上一郎(192075)、評論家、小説家、歌人。三島由紀夫事件後、自刃。本書には日本浪曼派・保田與重郎との対談も収録されていて、思想的には〈右〉の人だろうが、簡単に言えない。渡辺の紹介では、「英国流市民主義思想」「土着的ナショナリズム」「農本主義」のことばが並ぶ。戦後、村上自身が指針に、「米国的資本主義勢力駆逐」「共産主義革命」と書いている。渡辺は村上の思想を、《……日本の農村社会の生んだ精神の高潔、生の哀れを知る情緒のゆたかさ、仁義の二字に表わされる共同的正義感、……》と表現する。

書名にある「非命」とは、「天命でないこと。特に、意外な災難で死ぬこと」(『広辞苑』)。
 明治維新の後、国を指導した元勲たちのことではなく、志半ばで倒れた〈草莽〉9人の評伝。村上は、明治維新を文化・文政(1800年代初め)から始まると考える。登場するのは、大塩平八郎、橋本左内、藤田三代(幽谷、東湖、小四郎)、真木和泉守、三人の詩人(佐久良東雄、伴林光平、雲井竜雄)。教科書に出てくる名もあれば、初めて目にする名もある。吉田松陰、坂本龍馬、西郷隆盛(村上は「最大最高の維新者」と言う)は研究書が多いこともあり、本書では取り上げていない。収めきれなかった人たちもいる。

……維新者は、本質的に、涙もろい詩人なのである。維新者は、また本質的には浪人であり廟堂に出仕して改革の青写真を引くよりは、人間が人間に成るというとき、そのような設計図は役にたたぬことを知っているのである。維新者は、若々しい情熱を政治にそそぐこと、人後に落なかった。が、とど時務・情勢論の非人間性を知る者でもあった。だから、岩倉具視や大久保利通のようにはあり得なかった。友を失い、恋人を捨てて、やむなく政治に身を挺することはあっても、そのむなしさを知っているのである。彼は、時にニイチェのごとく哄笑する。が、その時も、こころは涙にぬれているのである。》

〈維新者〉の一基準として、村上は大塩平八郎の乱(1837年、天保8年)についての評価を挙げる。大塩は大阪奉行所与力を辞任して学者生活だった。大飢饉なのに、大阪奉行は将軍代替わり式典費用のため米を江戸に回す。豪商は米の値をつり上げる。大塩は困窮する庶民救済を訴え、幕政の腐敗を糾弾し、乱を起こす。

《たしかに、大塩の乱ははかない行動であった。そして、その思想は尊幕の範囲を出なかった。しかし、命を賭けてする行動というものは、かならず何かを残す。大塩の哀れな行動が、藤田東湖や吉田松陰に何を残したかは、それこそ、すこぶる見るものありであった。》

 大塩の乱で町民・農民たちは焼け出されたにもかかわらず、彼らによって大塩の思い=「社会正義の怨念」が語り伝えられた。

《ところが、大塩をほとんど評価しなかった明治維新の成功者たちはどうであろう。彼らが、大塩の乱の結果のはかなさを笑ったのは、彼らが時務情勢しか解しなかった者であることを、いみじくも示している。彼らのほとんどが、大塩、東湖、松陰のもっていた社会正義の念を置き忘れてしまったのである。(後略)》

(平野)「非命」「こころは涙にぬれている」、尊いことだろう。でも、やっぱり生きていてほしい。

2017年9月27日水曜日

落語と私


 桂米朝 『落語と私』 文春文庫 1986年 

初版は1975年ポプラ社。本書、古書うみねこ堂書林で購入、値段は鉛筆書き。最近は古本屋さんオリジナルのスリップが多い。
 
 

米朝師匠、お若い。芸を磨き、噺を発掘し、後進を育て、そのうえ〈落語〉という芸能を評論できる人。本書は中高生向けに書いたそうだが、内容は濃い。

〈話芸としての落語〉〈作品しての落語〉〈寄席のながれ〉〈落語史上の人びと〉
 落語の成り立ち、古典芸能のなかで他のジャンルとの違い、話芸としての特徴、噺の中味、歴代落語家のこと、などなど。

落語が、庶民の娯楽として山あり谷ありの時代を経て、現在は黄金期と言ってもいいかもしれないほどの人気を得ている。今、40数年前の本を読んで、落語の面白さを再認識する。

《落語は、古典芸能のはしくれに入れてもらいましても、権威のある芸術性ゆたかな数々の伝統芸能と肩をならべるのは本当はいけないのだと思います。「わたしどもはそんな御大層なものではございません。ごくつまらないものなんです」という……。ちょっとキザな気どりに思われるかもしれませんが、本来そういう芸なのです。》

米朝の師匠米団治の言葉。

《芸人は、米一粒、釘一本もよう作らんくせに、酒が()えの悪いのと言うて、好きな芸をやって一生を送るもんやさかいに、むさぼってはいかん。ねうちは世間がきめてくれる。ただ一生懸命に芸をみがく以外に、世間へお返しの(みち)はない。また、芸人になった以上、末路哀れは覚悟の前やで

 反骨、洒落。世間の常識におもねらない。廓噺や艶噺、酒飲みの噺、与太郎噺、嘘つきや不良の噺が堂々とできる。

(平野)
 先日、東西の人気落語家が近所のホールに来演。昼・夜二部制で、出演者が一人入れ替わる。私は昼席に。隣のご婦人二人連れが、お目当ての人気者が昼席に出ないと怒っている。どうもご招待できたらしい。良いメンバーです。楽しんでいただきたい。本音は「黙って聞けい!」ですが。

2017年9月26日火曜日

遅れ時計の詩人


 涸沢純平 『遅れ時計の詩人 編集工房ノア著者追悼記』 
編集工房ノア 2000円+税

 著者は大阪の出版社〈編集工房ノア、1975年創業〉社主。文芸書、詩の本を中心に出版している。本書は、涸沢が物故文人たちに贈った追悼の文章を集める。ただ文も年表も2006年まで。

……本書は、還暦の時、まとめたのですが、出版の決心がつかず、校正刷りのままほこりをかぶっていました。》

 書名の「遅れ時計の詩人」は清水正一(本書カバーの詩、19131985年)。市場で蒲鉾を作りながら詩を書いていた。ノアから、1979年に『清水正一詩集』(79年)、死後『続清水正一詩集』(85年)を出版。涸沢はたびたび清水を訪ねて、最終電車まで長居をしてしまう。清水は話し好きで時間が経つ。そのうえこの家の時計は常に遅れている。その時計をなおすことなく清水夫婦は暮らしている。

《この大幅遅れの時計が清水さんの詩であったのかも知れないと、今は思う。蒲鉾屋の時間を、詩人の時間にする時計であったのかも知れない。それと話し相手がついつい長居をする時計。》

 清水の一周忌に合わせ「偲ぶ会」が開かれた。後日涸沢が奥さんに写真を届けた。

《「お父さんがいたら、(会の後で)皆さんにここへ来てもらいましたのに……」/と奥さんは言われた。/奥さんはまだ、遅れ時計のまま暮らしているのだった。》
 


《さまざまな著者に出会った。たくさんの人が亡くなられた。/まず最初に出会ったのは港野喜代子。港野の人脈をたより、詩集『凍り絵』をだした。が半月後に突然死した。私はこの人のことを母とも思った。/十三の蒲鉾屋の詩人・清水正一のことは、父以上に父と思った。/桑島玄二、東秀三は、年の離れた、兄という思いであった。(後略)》

「やさしいおおきな伯父さん」足立巻一。「豪放磊落を装いながら、細かい気づかい」の富士正晴。「君といると気楽でいいわ」と言った庄野英二……

涸沢がゆかりの人たちを語ることは、そのまま〈編集工房ノア〉の記録である。

(平野)同社のPR誌『海鳴り 29』(2017年)では、一昨年亡くなった詩人・伊勢田史郎を追悼。

2017年9月12日火曜日

中原中也 沈黙の音楽


 佐々木幹郎 『中原中也 沈黙の音楽』 岩波新書 900円+税


著者は詩人、『新編中原中也全集』(全5巻・別巻120002004年、角川書店)責任編集委員。
 中也の最初の詩集は『山羊の歌』。死の直前、小林秀雄に託した第二詩集は『在りし日の歌』。「朝の歌」「言葉なき歌」という詩があるし、「歌」が多く登場する。音楽集団〈スルヤ〉の活動に参加したこともある。
 佐々木は、中也の自筆原稿、日記などから、推敲の様子、影響を受けた詩や哲学についての論考を読み解き、詩の創作過程を明らかにする。

《生きていた中原中也をこの手でつかむように目の前に浮かび上がらせたい》

中也の詩「雪が降つてゐる……」が1929年のノート(第一次形態)にあり、未発表のまま37年に加筆訂正(最終形)されている(詩集には入っていない)

「雪が降つてゐる、(改行、2字下げ)とほくを。」を繰り返し、後半「それから」を繰り返す。本書158~159ページ。


《……一人称以外の別の「声」が響き、詩の行が進むにしたがって、「とほくを」と「それから」が二重唱になり、三重唱になり、「声」が多重になるような効果を生み出している。最後に「喇叭」の音が響いてきても、それは一時的な響きで、無音のまま降る雪の、その沈黙の深さに吸い込まれるように、すべての音はかき消されてしまうような構造になっている。/最終形の二字下げの「とほくを」「それから」そして最後の「なほも」は、「雪」が降り積むさまであると同時に、「雪」そのものの「声」と言ってもいいだろう。同じ「声」が重なることによって、圧倒的に「雪」の無音(沈黙)が浮かび上がる。》

 最終形完成の前年、中也は愛息文也を病で亡くしている。日記帳に毛筆で、「戯歌/降る雪は/(1字下げ)いつまで降るか」と書き、大きく「」を書いた。あとのページは破られている。佐々木は中也の「明瞭な意図」と言う。

《「雪」は中原中也にとって比喩でもなんでもなかった。「雪」が宿命のように、あるいは不幸をも授ける恩寵のように中也のもとに降りてくるのは、詩のなかだけではなく、その詩を書く彼自身の生活にも及んだということ。》

詩集『在りし日の歌』の題名案は37年春までは「去年の雪」だった。他にも「過ぎゆける時」「消えゆきし時」「消えゆく跫音」なども考えられた。
その後の中也。
8月から9月にかけて『在りし日の歌』清書。
915日中也訳『ランボオ詩集』(野田書房)刊行。
16日関西日仏学館からフランス語教科書届く。
23日『在りし日の歌』「後記」執筆、15年の詩生活を「長いといへば長い、短いといへば短いその年月の間に、私の感じたこと考へたことは尠くない。一寸思つてみるだけでもゾツとするほどだ」と書いた。
26日、『在りし日の歌』清書原稿を、友であり恋仇である小林秀雄に手渡す。
佐々木はふたりの「沈黙の光景」を想像する。
《愛憎に満ちた長い友情の底にある「言葉なき歌」を思う。》
 
 10月22日中也死去。

(平野)今年は中也生誕110年、没後80年。《中原中也記念館》はこちら。
http://www.chuyakan.jp/