■ 鈴村和成+野村喜和夫 『金子光晴デュオの旅』
未來社 2600円+税
鈴村、1944年生まれ、フランス文学者、詩人。
野村、1951年生まれ、詩人。両者とも詩集・評論集など多数。
金子光晴について、鈴村は『金子光晴、ランボーと会う――マレー・ジャワ紀行』(弘文堂)、野村は『金子光晴を読もう』(未來社)がある。
[鈴村](なぜいま、金子光晴がアクチュアリティをもつのか、読み返されるべき時期にきているのか)金子光晴の戦前における中国と東南アジアの旅のもつ意味が大きいと思います。確かに戦後の金子もおもしろいですが、彼の原点はやはり、このアジア放浪の旅だと思うんです。(田村隆一の言、光晴はこの旅の前にいちど詩に見切りをつけた)詩をいちど捨てたところから、彼の詩は始まるのです。
[野村](優れた詩人が優れた詩を書いていても一種の飽和状態、これ以上再生産が必要なのかという気分でいたとき光晴を読み始めた)そこではいったん詩が捨てられ、散文との出会いがある。そのことが、いま僕自身が詩を書こうとしている現場に、強いインパクトをもって反映している気がしたのです。そして、とりわけ旅と詩が、旅と散文といっていいかもしれませんし、あるいは移動と散文といっていいかもしれませんが、絡まり合いながら進んでいくことに新しさを感じました。
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「パリという餌で男から引きはなす、というのが当面の日本脱出の本音」(鈴村)と推測される。
上海、シンガポール、ジャワ、ジャカルタ……、光晴は旅費を稼ぐために現地で絵を描き売る。29年10月シンガポールに戻り三千代を先に旅立たせた。11月マレー半島を北上、旅費ができシンガポールから出発。30年1月パリで三千代と合流。31年ベルギー。32年1月三千代を残して帰国の途に。シンガポールで下船、マレー半島再度北上。5月帰国。
旅については、『マレー蘭印紀行』『どくろ杯』『西ひがし』に詳しい。
ふたりの詩人が光晴の詩や著作に記された土地を確認しながら彼の旅を追う。本書は、そのなかで行われた交換ノートの記録。たとえばペナン島ジョージタウン、東はイスラム系、西は中国系。
トライショー(人力車)に乗って、暑熱のなかを、ゆらゆらと、あるいはそこから、いきなり、放り出されたように、ごった煮の、ジョージタウン……(略、ごった煮の言語、通り、人の肌の色、匂い、コーヒー)……それからまた、「尿のたまった木」、「散歩してる木」、光晴が書き留めたそれらの木を探しながら、ごった煮の、ジョージタウン、ごった煮の、とりわけ顔、顔、スカーフに縁取られたマレー系の女たちの顔、熱にとろけたような寝釈迦仏の法悦の顔、中国人街で買い求めたジャワの仮面劇のお面の顔……(N)
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詩の論議も。
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(光晴の『こがね蟲』について)厚化粧の詩ですね。かれは東南アジアを旅することによって、厚い詩から薄い詩に到達した。薄い詩、ということは、詩と行為のあいだの距離が少ない、ということですね。(広東の女が洗面器におしっこする音を詩にした「洗面器のなかの」を紹介)(S)
薄い詩、いいなあ、いい言い方ですね。もまれてもまれて、クラゲみたいに。(N)
長いあいだ詩を書いてきていると、いったい何が到達で、あるいはどこが到達点なのかということがわからなくなり、……(略、井戸であれば地下水によってどこかで通じているので、すてきだが)……そんな折に、こうして旅に出て、もうひとりの書き手とノートを交換し文章をやりとりするということ。ふたりで掘る井戸は、深さというよりもむしろ思わぬひろがりを得て、地下水以外の何かにぶちあたる可能性もある。楽しくてスリリングだ。でも、どうなのだろう。傍目にはわれわれはどのようにみえているか。いい年をして交換日記ごっこなどをしている奇怪な中年の旅行者? 手話ならぬ筆談で高尚な議論をしているインテリ聾唖者?(N)
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装幀 伊勢功治
写真 バトゥ・ハパのニッパ椰子 鈴村和成
三千代だけ旅立たせた光晴は……。
――ひとりになると淋しくはあるが、一面気らくでもあった。僕は白服に中折帽子でスーツケース一つ提げて、ジョホール水道をわたり、邦人ゴムと石原鉄鉱の集散地、河口のバトパハまで車を走らせた。……――
『金子光晴自伝』(講談社文芸文庫)より。
(平野)