2014年3月9日日曜日

足穂 美少女論



 稲垣足穂 『美少女論――宝石を見詰める女』 潮出版社 1986年刊

装画 まりの・るうにい  装幀 戸田ツトム

解説 加藤郁乎
 
 

 足穂の女性論集

 星の落し子のように、コーべの街を夜な夜なうろつき廻った友らも、或いは死に、或いはなおかつ生きながらえて、しかも、コーべの街は、タイム・トラヴェルの、すみれ色の夜色に反射して、電子ケンビ鏡下に、アブストラクトや、シュールの五彩のユメを、今なおきらめかせている。少なくとも、ぼくや、そして、おそらくは、君にとっても。真夜中のトアロードの坂の灯や、童話のシャトーに似た三色のトア・ホテル、元町の夜の路次に立つスペードの青い女、コーべの空に廻るサターン(土星)の白い輪。(これは、白でなければ困るのである)…… 「旧友の手紙」(197463日)

 以下、足穂文学愛好女性たちのことと彼女たちからの手紙のこと。
 キネマの月に(ちまた)昇るなれば……こんな上の句だけが出来て、つづきをどうすればよかろうと佐藤春夫先生に問うてみたら、答えは次のようにあった――

「ぼくは歌はダメだが、――キネマの月巷に昇る春なればこそ、貴女とぴかぴかした自動車(ロードスター)乗ってアスファルト上を走りましょう……とするんだね」

 遣られました! かつて神戸の山ノ手で、四月の夕べ、団々たる月のぼる刻限にすれちがった一外国少女に覚えた感情を、私の師匠はそっくりそのまま表現したからだ。 「美少女論」(『新潮』194812月号)

 佐藤春夫に入門した頃の思い出から始まる。

「われら切に求めるところは愛人に非ず、また母ならず、ひとえに心の色は赤十字! 看護婦である」
「愛の世紀の先駆なる日本美少女らのために、お祈りをささぐる――
……

 発表したのは12月号だが、書いたのは同年の桃の節句。

 確かに、足穂は夫人をはじめ良き女性たちにめぐり逢ってきた。 

(平野)