◇ 【海】史(24)
■ 阪神・淡路大震災後(7)
島田の震災後の記録は主に『蝙蝠、赤信号をわたる』(神戸新聞総合出版センター、1977年11月刊)に拠ってきた。
書名の“蝙蝠”は既述。
“赤信号”について。
震災から2年近く、本屋・画廊経営よりも、被災地復興・文化復興のことに関わってきた。
青い信号の方をむいて
私はあるいた
書名の“蝙蝠”は既述。
“赤信号”について。
震災から2年近く、本屋・画廊経営よりも、被災地復興・文化復興のことに関わってきた。
友が皮肉に「また、大好きな会議ですか」と言い、スタッフの顔には「いってらっしゃいませ」と言いながら“またですか”と書いてある(こんなことを書くとまたスタッフに叱られるぞ)。それも当然。だれかが強制したわけでもない。嫌なら断ればいい。「是非に」と頼まれても、本当は他の人でも、別段、大変な支障があるわけじゃないのだ。自分でお役に立てるのならと考えるのは、まことにお目出度い人というべきなのだ。
でも、今だからこそ言っておかなければならないことがある。今まで楽しい人生を送らせてもらってきたからこそ、伝えておかなければならないことがある。
戦後50年、経済成長のなか、自分たちは行政まかせ企業まかせで、楽な道を選んで生きてきた。経済大国になってすべてがうまくいくように見えていた。しかし、奢りのなかで大切なものを捨て、破壊してきた。島田は、目を離してはいけない、知らぬふりはできない、と考える。
どうも私たちに世代が日本の反映を支えたことはたしかでも、その繁栄にただ乗りし、次世代には負の財産のみを押し付けることになるのではないか。
杉山平一の詩を引用する。
「信号」
交差点にくると
右ひだり どちらでも青い信号の方をむいて
私はあるいた
気がつくと いつのまにか
もとの場所に戻っていた
ときには 一度くらいは
赤をつっ走るべきだったのだ
島田は、この詩に励まされて「赤信号」をわたってきた。
友は、「赤信号を渡ったら確実に事故が起こるよ」と心配し、もう一人の友は「二顧してから、赤信号を渡って下さい」と手紙をくれた。もう一人は「いよいよ、自爆ですね」と、うれしそうに笑った。
イラスト・佐野玉緒(『蝙蝠、赤信号をわたる』より)
(平野)