■ 稲垣足穂 『タルホ大阪・明石年代記』 人間と歴史社 1991年7月刊
装幀 戸田ツトム+岡孝治 装画 まりの・るうにい
目次 蘆 芦の都シリーズ パテェの赤い雄鶏を求めて 雪融け 父と子 地球 明石
解説 ベルグソンの薔薇 高橋康雄
足穂は小1の2学期に大阪船場から明石に移った。
「蘆」
汽車や郊外電車の窓から眺めるその横顔は、たくさんな煙の糸で天からぶら下がっているようでした。殊に蒼い夕暮れでもあって、地平を画しているそれら無数の工場からの汽笛が、ワダチの音をも掻き消して了うくらいに湧き上る折などは、都会全体が怺えていた事を一度に吐き出したかのようでありました。それでも矢張り蘆臭い、蘆の匂いがする、そういった方が相応しいようです。
街のまんなかの雑貨・小間物の商店の多い場所が父の修業の地。どこの誰ともわからぬ若者のうえ、まだ歯医者は医者なのか職人なのかも区別のつかない時代のこと。
幼少時代を、街とモノ(文房具、玩具、自動車、船、映画、洋食、サイダー、お菓子など)の記憶とともに語る。
「明石」
タルホ版“明石郷土史、文化史”。
播磨も郷土らしい雰囲気があるのは、明石から西だと私は思っている。自分が明石の生れではなく、そうかといって仮住まいの身でもなかった奇妙な因縁に依るものかもしれないが、凡そ郷土といえばゲミュートに訴えてくる……あの哀切なものが、もともと此地には欠けているようだ。港の掘割や西方の寺続きの区画に昔ながらの明石が保存されているといっても、それは消えそうになった散光にすぎない。
ところが大阪についていうと、梅田ステーションの煤に黒づんだ旭日形の玄関口、ゼム(口中香錠)の大広告、伏見通いの外輪船、灯のついた船々に埋まった大川の夕涼み、道修町の張子の虎、十日戎の宝恵駕籠、法善寺横丁のお多福人形……こういうものが私の心の片隅にいまだに郷土的な翳りを残している。取り分け東郊西郊から振返って眺めやる煙突林立のプロフィールと、南海電車の窓から眼にとめた古風な帆掛舟がのろのろ動いていたみおつくしの辺りに、私は、ふるさと「蘆の都」を痛感する。
先祖の話も。母方の祖父は播州多可郡の生まれで岩屋神社の出店を仕切る。父方は淡路の農民、ミカドの従者の家系で藤原氏。
私は大阪の船場に生れたが、本当は播磨人だという証明のために、ここに記しておく。
(平野)