2014年4月29日火曜日

東京遁走曲


 稲垣足穂 『東京遁走曲』 昭森社 1968年(昭和438月刊
装幀 亀山巌

目次 東京遁走曲  わが庵は都のたつみ――  随筆ヰタ・マキニカリス
 
 

 酒と貧乏の東京を脱し、京都に移るまで。
 足穂の東京生活は、1919年の自動車運転免許取得のための上京、21年からの佐藤春夫書生生活・新進作家時代(32年から明石・神戸)、37年から牛込区横寺町住まい。「夜具の他に身辺無一物」(折目博子『虚空 稲垣足穂』)でアル中状態。

 あの十二月八日、私は大塚病院の伝染病舎のベッドにいた。
「彼は大事な商売道具であるインクのはいったインクビンを質に入れたそうだが、私にも同じ経験がある。ちがうのは彼が独身であったのに反して、私には妻子の外に女中もいたということだった」と草野心平が書いていた。私の窮状は倉橋弥一が昭森社の森谷均に伝え、森谷大人から心平に語られたものに相違なかった。大正十一年の春から太平洋戦争まで、私は牛込横寺町の路次うらで心平がいっているような月日を送った。(略、近所の縄のれんにやってくる人たちにたかっていた)「おまえのような奴は監獄か避病院へ行かなきゃ悪癖は治らん」といわれていた。その通りに、チフスに罹って病院行きになったのである。

「あの十二月八日」とは日米開戦の日。
 戦争中、出版社からの前借も思うように行かず、おごってくれていた仲間たちは四散し、若者は出征。我が身は徴用となったが、それで食いつなぐことができた。

 私は戦後約十ケ所を転々してから、昭和二十二年の夏に、戸塚グランド坂上の旅館の一室に居を定めたものの、翌々年の五月には越中の城端町まで逃げ出さねばならなかった。一ケ月で再び東京へ舞い戻り、一夜のねぐらをうつり変って、小出版社の土間に椅子を三脚ならべて夜毎のベッドにするようなことがあったあげく、江戸川乱歩の好意でやっと中野駅近くの横丁に、二階の三畳を借りることができたのである。

 外食券を換金してカストリ酒、食べ物は日にコッペパンひとつ、絶食の日もあった。痩せ衰え、鳥目に。駅でモク拾いをする日々。

 いつになったらこんな窮状から抜け出されるか、その当は全然なかった。しかし「大変な時代が来ようとしている」なんて別に思わなかった。自分には物心がついて以来ずっと「大変な時期」であったからだ。コッペの変えない日が続いた。

 書肆ユリイカの伊達得夫が学生時代からの知人・篠原志代を足穂に紹介する。西本願寺の有髪の尼で、看護婦・助産婦で福祉司、当時33歳、子連れ。

 原則として妻子を持っている人間を自分は信用しないことにしていた。持てば憂し持たねば人の数ならず捨つべきものは妻子なりけり。これが私の心境であった。

 その足穂が決意した。

「ああこの二者共同の魂の貧困! ああこの二者共同の魂の汚れ! ああこの二者共同のみじめな安逸! 人これを呼んで結婚という」先方が美人でも心中の片割れでもなく、また宿痾に悩んでいる人でもなくて、本願寺派の有髪の尼僧であることが、少なくともニイチェのいう結婚地獄をまぬがれしめるだろうとの見込みがあった。(略)彼女側ではまた新潮でわたしのエッセイ(『美少女論』)を読んで、これなら自分のことも判ってもらえるだろうと思ったのだそうである。つまり結婚とは互いに離れ離れになっている両半球を合わせて、一箇の球に仕上げる難事業であり、たとい一方の半球がいびつであろうと、また朝顔型にひらいていようとも、お互いに心づかいをして、工夫を凝らして合致せしめねばならないと論じている箇所が、それに当る。

  昭和二十五年二月二日の深更近くに、東京駅を辷り出した大阪行準急がまず新橋駅に停った時、私は、いつのまにかこんなにまではびこり繁茂している彩光真空管のシャボテン林に眼を見張りながら、それら赤青紫白の光の花々に東京への訣別を託した。この別れの念を裏付けるように、潤一郎の『芦刈』の舞台が拡がっていた。もう東京へはこないつもりであった。そこでは振出しから明るい思い出はなかった。ことに最後の十年間における西側の電車、西武、中央、京王、小田急、東横、目蒲、池上、南武の諸線はその名を聞いただけでもゾッとするのだ。

形としては、志代が足穂を京都に引き取った。

(平野)