2014年4月9日水曜日

神戸発 阪神大震災以後


 【海】史(25

 酒井道雄編 『神戸発 阪神大震災以後(岩波新書 19956月刊 品切)(その1

 大震災から半年。病院、老人ホーム、学校など現場の変化。自治会、ボランティア、在日社会の動き。被災者でもある執筆者たちのルポと提言。

目次 

地域はもう一つの病棟――医療の現場から  道上圭子
高齢者に居住、移転の自由は?  中村大蔵
震災を生きる障害者」  西脇創一
検証・阪神大震災と「在日」社会  粉川大義
工場も家も失ったケミカル業界  門野隆弘
立ち上がる市民、自治会  酒井道雄
地域が学校になだれ込んだ  有井基
市民とボランティア  草地賢一
神戸に文化を  島田誠
行政を変える――市民のまちづくりへ  中田作成

島田の文章から。

 1994年春から、神戸市文化指針検討委員会は2010年に向けて神戸の文化のありかたを議論していた。島田も委員。
「文化指針」の基本理念。

「これまでの合理性や効率性だけを重視したやりかたを廃し、まちづくりの主役となる人間性豊かで個性的・創造的な人を育んでいく」

 ハードからソフトへの転換。島田は、「音楽のまち神戸づくり」「ミュージアム都市づくり」「文化の担い手を育成・確保する」などの内容を高く評価するのだが、「六甲シンフォニーホール」には疑問を持つ。
 同ホールは90年に市長が発表。六甲山の地下に1800名収容の大ホールと300名の小ホールを建設、総工費500億円。
 六甲山という自然環境保護、水害・火事・地震による危険性、巨額の費用という財政面、ソフトではなく箱モノという政策面、問題が多い。神戸市得意の「土木工事による開発行政の文化シンボル」であり、その推進手法が「市民の声は聞く、しかし議論はさせない」という都市経営そのもの。
 市は委員会での議論を避け続け、既成事実化していく。

 文化指針検討委員会のワーキンググループである小委員会での活発な議論のなかでは、市の対応も柔軟に見えた。しかし、具体的に議論できない、というよりさせなかった「六甲シンフォニーホール」を、あたかも議論された結果のように答申に書き込もうとする神戸市の事務局は、それは認められないとする委員に頑強に抵抗した。

 すったもんだして、委員長が「本格的シンフォニーホールの建設(たとえば六甲シンフォニーホールなど)」と複数案を検討するという表現に書き換えることでまとまった。市は、市長が発表ずみであることや上部委員会で「六甲」は明記されているという理由で、この委員長提案を拒否。「反対意見も注記」することで同意。最終的には953月市長に答申の手はずとなる。
 島田は震災で経済・生活の基盤が破壊された以上、震災前の「指針」は見直すべきと考えた。2月中旬、市は「最終委員会は日程・場所も都合がつかないので、郵送で意見を聞き、予定どおり3月答申」と通告してきた。

 私は、震災後に出る答申だからこそ、現実を踏まえたうえで、未来に希望を与える「指針」でありたい、当然、会議は開くべきだし、まして「六甲」が書き込まれた「指針」など市民感情として論外である、このままの答申には名前を連ねるわけにはいかない、どうしてもやるというなら委員を辞任すると、押し問答をくり返した。

 その後、曲折があり、市側が折れ、「複数案検討」の表現にもどり、さらに3月半ば「指針」の見直しとなった。
(平野)