2014年8月31日日曜日

怨霊のふるさと


 有井基 『怨霊のふるさと 兵庫のミステリー』 のじぎく文庫 1972年(昭和4712月刊  装丁 南和好

 有井基(ありいはじめ、19322006)、神戸新聞記者で郷土史研究家。
 有井が怪談・奇談を集め「日本の妖怪」をまとめていたところ、ある詩人が編集者に「兵庫県について書かせろ」と耳打ちしたそう。
 有井は、怪異・怪奇の話ではなく、話と土地の暮らし・生活との関係を考えながら本書をまとめた。古くからの風俗・習慣、タブー・名神、共同生活での規制など。

目次

ひしめく怨霊の群  信じようと信じまいと 芦屋の幽霊さわぎ 常識と怪談 深層の恐怖 一本足の怪 ……

人と動物が変身する時  子育て幽霊 賽の神の近くに ウブメの怪 嫉妬に狂う鬼女 小天神の呪い ……

石にも木にも血の刻印  師直の妄念 石工の災難 石にこもる魂 血ぬられた石 淡路の河童駒引き ……

海の妖異と人魂と  髑髏をにらみ返す 福原遷都に恨みの声 崇徳院のタタリ 波間に平家の怨霊 奪われた姫 ……

怨霊の話は「一本足の怪」(山人)から始まり、「一眼一足」(山の神と田の神)、「一つ目小僧」(山の神と山の男=製鉄)、「片目の魚」(たたり)、そして「御霊信仰」に行きつく。

御霊信仰とは、奈良時代末期から平安時代にかけて盛んになった民間信仰で、いずれも権力抗争に敗れた貴族や政治家、のちには戦いに負けた武士の、霊をなぐさめ、なだめるためのものだった。それは、疫病の流行、不時の死、さらに天変地異ことごとくが怨霊の祟りだと信じられた時代の発想であり、その後も庶民の生活の中に生きてきた。

「播州皿屋敷」も怨霊の祟り。主人が大事にしていた皿を割って手打ちになった腰元の幽霊の話。姫路のお菊神社の由来記では、お家騒動がからんで、お菊は主君を守った神として祀られている。同じ話が各地にある。土佐では庄屋の下女、播州の修行者が登場する。江戸の「番町皿屋敷伝説」を浄瑠璃にするにあたって、「番町」をはばかって「播州」にした、という説もある。
 いろいろな詮索よりも広く流布したことに興味がある。

女中や下女が、領主や庄屋といった権力をおびえさせ、ほろぼした話が、たとえ、つくり話にしても各地で共鳴を興した、その事実のほうに興味がある。絶えず押しつけられていた庶民が、その話を通じて、ざまあみろ、の快哉をさけんだ心情は、だれにでも用意におしはかれるだろうから。

(平野)

2014年8月30日土曜日

六甲山心中


 陳舜臣 『六甲山心中』 中公文庫 1977年(昭和522月刊(手持ちは8464版) 単行本71年中央公論社刊。

 表題作他全6篇ミステリー集、すべて舞台は神戸。

「六甲山心中」

 死に場所を探して秋の六甲山中を徘徊する男女。航太郎23歳、牧子20歳。若い二人が死を決意するまでの理由はよくわからない。航太郎は、両親を幼くして亡くした、身体が丈夫ではない、孤児に対して世間のは冷たい、何をやってもうまく行かない……。牧子も孤独、父は死に、母は再婚。「死ぬこと」は二人で何度も話し合った。
 昭和40年代、六甲山は自殺の名所だったらしい。年間50人以上が自殺。この時代、神戸市は埋め立て事業の真っ最中。ポートアイランドという人工島も造った。あちこちの山を削って土砂を採取し、採取地は宅地造成。「海、山へ行く」と言われた神戸の開発行政の象徴だった。
 六甲につながる渦森山もその一つ。二人は一晩歩いて、いつの間にか、その渦森山に来ていた。土砂採取の現場のあたり。まだ夜が明けていないが、作業の準備をしているらしい人影が二つ見える。

「やはり、あたし町の見えるところがいいわ。おなじ死ぬなら、町に近いところで。……でも、こんなむき出しの土のところはいやよ。砂漠みたい」
 彼女は立ちどまって言った。
「しばらく、ここで休むことにしよう。どうやら住吉川に出てしまいそうだな」
 と、航太郎は言った。神戸の工場で働いたことのある彼は、土地カンがあった。
「川もいいわね」
「白鶴美術館が下にあるけど……
「美術館のあるような場所なら、きっとわるくないと思うわ」
(略、航太郎は、自分一人ならどんな死に方でもよかった。牧子はロマンティックなムードがほしかった)彼女が死ぬ気になったのは、航太郎への愛と同情がいりまじっているが、その心理も少女的センチメンタリズムの所産といっていいかもしれない。扱いにくいものなのだ。

 航太郎は彼女を残して適当な場所を探しに行く。彼女は死の床とする赤いビニールシートを敷いて待っている。
 彼女を置いてけぼりにすれば彼女は死なずにすむ、自分だけ死のう、でも薬は彼女が持っている。首をつろう、紐はない、ベルトがある、ズボンを脱ぐのはためらいがある……、考えているうちに胸の底から哄笑が噴きあがってくる。
 彼女の悲鳴が聞える。男が彼女を羽交い絞めにしているのが見えた。一旦は彼女を助けて逃げるが、二人組に捕まる。生き埋めにされるらしい。奴らが穴を掘っている。
 航太郎はこれまでの不運を牧子に話し出す。

「ほんとに運がわるいのね」
「これから何十年生きたって、おんなじことだ。幸運はぼくのまえを素通りするだけさ。……まさか死ぬまぎわまでツイてないなんて、ゆめにもおもわなかったね。きみまでひきこんだのは、たまらない気もちだな。……
(二人は穴に突き落とされる。土砂がかぶされる)
「あたし、死にたくない!」
 彼女は思いきり大声で叫んだのである。
「ぼくもだ!」
 航太郎もどなり返した。……

 二人の命は助かるのか?

 解説は足立巻一
 推理小説として、手のこんだ殺人事件や格別複雑なトリックが仕掛けてあるわけでもない。名探偵も出てこない。陰惨さ、残酷さもない。話には主人公の思いちがいだったという設定が多く、そこから運命は主人公が考えもしなかった方向へ逆転する。(略)
 作者が好んでそういう設定を用いるというのも、そこに人生の機微があると考えているからであろう。真実と信じきっていることも裏から見れば一片の虚偽であり、その逆に、虚偽とされるものもわずかに視点を変えれば真実であり得る。その変化に応じて、人間の運命も万化する。その裏返しにつぐ裏返しが作者の作劇術である。

(平野)

2014年8月29日金曜日

夕暮れに苺を植えて


 足立巻一 『夕暮れに苺を植えて』 朝日文芸文庫 19959月刊


装丁 阪田啓  表紙絵 神田昇和
単行本は815月新潮社刊。

 足立の恩師・石川宗七――歌人としての名は石川乙馬――のこと。
 昭和44年(1969)、足立は本居春庭(宣長の長男)研究のため松坂に来ていた。石川先生の郷里で、久しぶりにご家族を訪ねた。42歳で亡くなって33年。仏壇のそばに短冊があった。

 数ならぬ吾をめぐりて友どちのなさけは注ぐ雨のごとくに

 お墓まいりをした翌日、神戸に帰るつもりで宣長記念館の人たちにあいさつしていたところ、春庭の原稿束が見つかったとわかり、滞在をのばした。思いがけないことで興奮して、その夜は寝つけなかった。先生の遺稿歌集を自分が編もうと決心した。
 先生との出会いは関西学院中学部。学院は、木立に囲まれ、赤レンガのチャペル・校舎、ハイカラな学帽、讃美歌と聖書講義。教師もクリスチャンが多く、やさしいが親しみにくい感じ。石川先生は風変わり。紺絣に袴、ふところ手。足立はいきなり教科書を読まされた。橘南谿『東遊記』の一節で、越中魚津の蜃気楼のことを聞き書きしている。足立はひっかかりながらどうにか読んだ。先生が朗読しながら説明を加えた。

 先生は読み終わると、ひとりごとのようにいった。「南谿はほんとうに蜃気楼が見たくてたまらなかったんだな。……ぼくも見たいね」
 そしてはじめて、苦笑のようなものを含みながら生徒の顔を見渡した。それから、呼吸をおいて、「ぼくも蜃気楼を見たことがない」
 その苦い笑いと声とが、なんでもないはずなのに、わたしの記憶には強く焼きついた。

 先生が短歌を詠むと知って、春休みに先生の家に押しかけた。足立は当時啄木に打ちのめされていた。先生に短歌を見てもらった。50首の中からマルをつけたのは1首だけだった。

「啄木のまねをやってもダメだな。啄木の感受力は百年にひとり出るか出ないかの天才のものなんだ。(略)万葉集を読みたまえ」

 そう言いながら、先生が筆写した島木赤彦の歌集と『香菓』という冊子をくれた。冊子は先生が出している同人誌。足立が「コウカ」と読むと、

「ちがう。キョウカと読む。『古事記』のカグノコノミからとった」
 それから、やさしい声になった。
「帰ってゆっくり読みたまえ。きみも歌ができたら持って来なさい。とにかく会員にしてあげる。要はいろんな本を読んで、たくさん歌を詠むことさ」

 先生の筆名が「乙馬」と知ったが、「オトマ」か「オツマ」か。
 一鶴と藤吉に『香菓』を見せて、彼らを会に誘った。藤吉は「イツマ」と言った。一鶴は「オトメ」。足立は先生に読み方を聞くこともなく先生は亡くなった。

 知ったのは30数年たってから。歌集編集で、先生の親友を訪ねた時。若き日に恋した芸者の源氏名と。一鶴が正解。一鶴は戦死していた。
 藤吉の息子の媒酌人を頼まれる。式場は生田神社、自分たちの「古戦場」。筆名のことを藤吉に話した。

「へえ、オトメか」
 藤吉はふしぎそうな声を出してから、突然、上気した語調になった。
「石川先生の歌、あれはいまでもおぼえとるぞ――夕暮れに苺を植ゑてうゑ終へず雨ふり出てぬぬれつつぞ植うる――どうだ? おれはこの歌、好きなんだ」
 藤吉は歌をもう一度、微吟した。

 足立は先生を父のように思った。短歌だけではなく、勉強でもお世話になる。先生の母校・神宮皇学館を2度落ちている。
 筆名のこともそうだが、編集過程で、決して平凡ではなかった先生と周囲の人びとの歩みを知る。
(平野)

2014年8月28日木曜日

足立巻一「親友記」


 足立巻一 『親友記』 新潮社 19842月刊

装幀 早川良雄

 足立(19131985)は生まれてすぐに父親を亡くし、母親は再婚、祖父母に育てられた。東京を転々とし、祖母が死ぬと祖父と長崎まで行き、その祖父も死に、親戚の家々で養われた。友だちができる機会がなかった。神戸の伯父の家に落ち着いたのは9歳の時、大正11年(1922)夏。

 伯父の家は生田神社の東門を出た道に面して、〈とらや〉という薬局を営み、大きな張り子の虎を看板に掲げ、かなり繁昌していた。西洋人や中国人の客も多かった。
 藤吉の家は、その薬局と背中あわせになっている路地の裏長屋の一軒であった。そこに藤吉は幼い弟と妹との世話をしながら住んでいた。母は早く亡くなり、父は船乗りということであった。
「ぼく、藤吉さん」
 はじめて会ったとき、藤吉はそう名乗った。……

 この「藤吉さん」と生涯の友となる。
 藤吉とは写生に行ったり、チャンバラ遊び。足立はよくいじめた。5年生になると自転車屋の一鶴(のちの俳号)、インバイ屋の成夫も加わり、生田神社で相撲したり、チャンバラ。一鶴の部屋を根城に「立川文庫」を読みふける。「性」の興味も。
 小学校を卒業して進路は分かれるが、また集まるようになる。
 足立は中学でも友だちができる。美大志望の光麿、文学好きの粕渕、演劇にくわしい草津ら。文学・芸術に傾倒し古本屋通い。
 藤吉、一鶴らも芝居が好きで劇団結成。足立は大学進学希望だが、学業よりも詩歌投稿に熱中。投稿常連の歌人・詩人らと、ついには同人誌を出す。藤吉、一鶴も加わる。昭和6年(1931)短歌『あさなぎ』、翌年、詩の『青騎兵』。

『あさなぎ』の仲間・月井が詩の雑誌を出そうと誘う。
 月井は誌名を考え、序詩も書いていた。『青騎兵』、ペンネーム「亜騎保」。同人は、『あさなぎ』の丘本冬哉(古本屋・博行堂書店)、岬弦三、九鬼次郎、一鶴。

 世の中は重苦しい。昭和6年「満洲事変」、昭和7年「上海事変」「五・一五事件」……
 昭和9年、足立は伊勢の皇学館大学進学。卒業後応召。
 昭和15年「神戸詩人事件」。『青騎兵』の仲間だった亜騎、岬らのグループ(『神戸詩人』同人)が共産主義につながっていると検挙された。亜騎は超現実主義、岬は人生派で、共産主義云々とは無関係。デッチ上げ事件だった。

 敗戦後、足立は商業高校で教師。詩人仲間・大弓と偶然会う。詩人たちが集まっている古本屋に案内される。小林武雄、八木猛、亜騎がいた。亜騎は足立、岬、藤吉と連絡を取るために文章を書いていた。

《噫、今に至るも行方が判らない。人生のほんのカキ傷を残しただけで消えてしまつたとは考へられない。どこかで歌つてゐるのに違ひない。さう信じることは私にランプのやうなぬくもりを感じさせる。
 消息を知らせよ。生きてゐる形体を表示せよ。(死んだのぢやあるまいナ)
 一刻も早く語れ。
 私の手は、上へ向いてゐる。》
 一読して鼻孔を刺激するものを感じた。

 昭和219月、『火の鳥』創刊号発行。富田砕花、竹中郁、能登秀夫、井上靖の名が並ぶ。中心になったのは「神戸詩人事件」に関わった小林・亜騎らだった。
(平野)

 

2014年8月27日水曜日

海と宝石


 『gui』 101号(2014.4発行) 102号(2014.7発行)
 

田村デザイン事務所  非売品

 1979年創刊の同人誌、年3回。詩を中心に小説、エッセイ、デザイン、写真。
 詩人さんからいただいた。同人で顔見知りの方は、岩田和彦さん、「気まぐれ読書ノート」。

 詩人は「海と宝石」を寄稿。
「海」は本の海。 海文堂も? 
「宝石」は、本と本を通じて知ったこと、出会った人たち。

 「海と宝石(二)」より。

 わたしたちも割り切っているので、もう割り切るように。わたしたちも引き摺らないので、もう引き摺らないように。

 詩人が主宰する古本市に出品したFが詩人に申し上げた言葉。

 店が閉まったのは、書店員であるわたしたちの責任です――

 これも古本市に参加したKの言葉。

……海はもう静かに凪いで、一つの風景画になっている。「引き摺らなくていい、割り切りなさい、あなたのせいではない」。書店員さんたちはやさしい。お店がなくなってからも、まだ。 
 海文堂は、いつどんなときも微笑んでわたしを待っていてくれたやさしい本屋さんだった。

 たくさんの方がいろんな思いを持ってくださっている。ありがとう。
 詩人は【100年イベント】をずっと手伝ってくれた。最後の日のパーティーには髪を切って出席した。
 あのイベントでケジメをつけた人がいるし、まだ「引き摺っている」おバカもいる。

(平野)

2014年8月26日火曜日

編集少年 寺山修司


 久慈きみ代 『編集少年 寺山修司』 論創社 3800円+税

序にかえて――寺山修司の編集力

部 たった一人の編集者からの出発

第一章   「週刊古中」「野脇中學校新聞」の時代
第二章   新資料文芸誌『白鳥』を読む
第三章   「青高新聞」の時代
第四章   青森高校『生徒会誌』にみる寺山修司
第五章   「三ツ葉」との交流

部 作品投稿の日々

第六章   「東奥日報」女性名のペンネームによる投稿
第七章   「青森よみうり文芸」への投稿――寺山短歌誕生の萌し
第八章   「寂光」と寺山修司
第九章   「暖鳥」と寺山修司
第十章   「青年俳句」と寺山修司

作品略年譜  参考文献と資料
あとがき
《追悼》寺山修司のふるさとを愛した九條今日子さん

 著者は1948年群馬県高崎市生まれ。青森大学社会学部教授、中古文学(念のため、中古品とちゃいます、平安時代の仮名文学)および「寺山修司の青森時代」研究。

 寺山の創作活動は華々しいものだった。俳句、短歌、詩、演劇、映画、小説、評論、歌謡曲もある。

さまざまな顔を持ち多方面で活躍した寺山修司であるが、もしかするとその原点は編集者。

著者は、寺山の言葉の力の源を彼の少年時代に見出す。

「週刊古中」(念のため、古い中古とちゃいます)は三沢市立古間木中学1年時、寺山が一人で編集した新聞。三沢の寺山修司記念館でその記事が著者の目に留まる。

 大募集 漫画小説作文俳句和歌詩ふるって応募ください。投書箱へ(編集部と記入)

 大募集 漫画俳句短歌作文ふるて(ママ)應募を望む。

先週新聞を発刊せず眞に申分けありません 編集長

……編集長、編集部とあるが実在しない架空のもの。大きな太字で仲間を募るために、必死に呼びかけた少年の心を想うと、涙が出そうになる。(略)

 少年時代の作品創作の場をたどる過程は、平穏な日常生活の中で、ともすれば忘れている戦争が、いかに感受性鋭い少年たちに深い傷を与え、その人生に重い負担を強いることになったかを改めて認識する場でもあった。寺山世代は、戦争で亡くした父親を還してほしいと叫んだ世代でもある。

(寺山は父を失い、母とも離れて育った)

 孤独な魂をかかえた少年は、とても一人でじっとしていられなかった。作品を創作する仲間と創作した作品を発表する場を求めて、突き動かされるように学級新聞や文芸雑誌の編集に熱中し続けている。そして、少年時代に行われていた編集作業は、生涯続けられている。

 2の時、青森の野脇中学に転校する。学級新聞に詩、小説、和歌、俳句を投稿。文芸欄は寺山の作品で埋め尽くされた。

 母想ひ故郷を想ひ寝ころびて墨(ママ)の上にフルサトと画く (著者註、墨は畳の誤植か)

 空遠く眸に浮かぶ母の顔

 この頃、母は福岡の米軍キャンプに働きに行っていた。

……とがった才能を持った寺山の傷ついた不安な魂を救ったものは、友人たちとの文芸活動であった。孤独な悲しみを持った人間は、一人で居ることの寂しさに耐えられず、立ち止まってもいられなかった。仲間との文芸活動に熱中する時間は至福の時となり彼を救った。

(平野)

2014年8月25日月曜日

憲法の「空語」を充たすために


  内田樹 『憲法の「空語」を充たすために』 かもがわ出版 900円+税

 201453日、兵庫県憲法会議主催集会での講演。

 なぜ、政治家や官僚は日本国憲法をないがしろにするのか? 民主主義を否定するのか? 一部マスメディアまでその行動・思想に賛意を示すのか?
  日本の民主主義、憲法はそれほど脆いものなのか?
  護憲の立場から「日本の民主制と憲法の本質的脆弱性について深く考える」。

1 「日本国民」とは何か  

神戸憲法集会について 
公務員には憲法尊重擁護義務がある 
敗戦国の中での日本の特異性 
日本国憲法の持っていた本質的な脆弱性 
憲法九条にはノーベル平和賞の資格十分 
憲法の守護はそれにふさわしい重みを獲得していない

2 法治国家から人治国家へ

法治から人治への変質
株式会社的マインドが日本人の基本マインドに
メディアが方向づけした「ねじれ国会」の愚論
国家の統治者が株式会社の論理で政治を行うことのいかがわしさ
「日本のシンガポール化」趨勢

3 グローバル化と国民国家の解体過程

自民党改憲草案二二条が意味すること
グローバル資本主義にとって障害になった国民国家
「日本の企業」だと名乗るグローバル企業の言い分
 この講演会の後援を神戸市と教育委員会は拒否した。「政治的私見」であり「政治的中立性」は認めがたい、という理由。
 公務員には憲法尊重擁護義務があるのではなかったか。
 内田は敗戦、日本国憲法成立過程に遡って「日本国憲法の脆弱性」について考える。
 
 日本国憲法には、

憲法(、、)()引き受ける(、、、、、)生身(、、)()主体(、、)()存在(、、)しない(、、、)

 憲法成立時に制定主体である「日本国民」という実体が存在しなかった、と言う。
 日本の敗戦は歴史的惨敗。海外の占領地だけでなく、沖縄、本土主要都市空襲、広島・長崎……、国民が死に、国土が焦土と化した。指導者は敗戦に備えた再建を考えていなかった。このへんでやめて有利な交渉とか、ここまでいったら降参しようとか。また、指導部に反対していた人・グループ=敗戦後に戦前より比較的まともな政体となるであろう、そういう人もいなかった。他の敗戦国にはいた。だから、日本は最終的に「一億総懺悔」した。

大日本(、、、)帝国(、、)()臣民(、、、)()()おいて(、、、)戦争責任を引き受け、戦争責任を追及することのできる日本人がいなかった。(略)負けたときの国家再建の基盤となる主体を持たないような仕方で戦争を始め、戦争に負けた。僕が憲法には「主語がない」というのは、そのような状況を言っているのです。

日本国憲法の本質的脆弱性というのは、そこに書かれた言葉や概念が、大日本帝国の瓦礫と残骸の中から最後に残った「良きもの」だけを拾い集め、それを煉瓦を積むように積み上げて、戦後日本のあるべきかたちや進むべき方向を自分(、、)たち(、、)()手持ち(、、、)()言葉(、、)で語ったものではないということです。

 素晴らしい憲法だが、答案を書いたのは受験生自身ではない、とたとえている。

「国民国家の株式会社化」を進める政権、「グローバル企業」の非論理的な要求、「ナショナリスト」が最優先に語る「金の話」などから守るべきものがある。
 豊かな自然、治安、水、食べ物、伝統文化……、彼らが言う「金」には代えられないものがある。

僕たちにとりあえずできることは、彼らの破壊の手から「それだけには手を触れさせてはならないもの」を守り抜くことです。そのために全力を尽すこと、それが僕たちの当面の任務であろうと思います。
 憲法もその一つ。
(平野)

 

2014年8月24日日曜日

日記


821日(木)

親しくしていた出版社の方お二人から定年退職の挨拶。一つの仕事に打ち込んでこられた先輩たち。お疲れさま。

822日(金)

私の任務は「【海】の本」。元同僚の文章を読み直してみた。初めて読んだ時とはまた別の味がする。文学青年のどこか満たされない思いが伝わってくる。私には真似できない。

823日(土)

【海】関係者からメールいろいろ。ギャラリー社長からイベント売り上げ金を「刊行委員会」に振り込みの連絡。私宛に届いたカンパも先日入金。皆さんの熱意と期待が積み上がっていくが、その重みを感じていない書き手(私)。

ゴローちゃんから『ほんまに』の「店長対談」原稿。F店長はやはり話がうまいというか、話好き。

「コミュニケーション能力というのは、言いたいことをロジカルにわかりやすく滑らかにに表現できる能力のことだと思っている人が多いけれども、それは違います。コミュニケーションが断絶してしまったとき、つまり、言葉が通じない、相手の意志がわからない、目の前にいる人間に共感できないというコミュニケーション(、、、、、、、、、)失調(、、)状況(、、)から(、、)抜け出(、、、)()能力(、、)のことです。」(内田樹『憲法の「空語」を充たすために』かもがわ出版)
(平野)

2014年8月23日土曜日

山田さんの鈴虫


 庄野潤三 『山田さんの鈴虫』 文藝春秋 2001年(平成134月刊 
単行本は品切、文春文庫は版元在庫あり。

装丁 大久保明子  装画 成宮小百合

 子どもたちは成長、結婚して住まいも別。夫婦二人の生活になっている。
 山田さんはご近所の編み物の先生、一人暮らし。妻は時々着るものを作ってもらっている。鈴虫を育てていて、庄野にくれる。

 鈴虫。
 午前中と昼間は静かにしていて、夕方になるとなき出す山田さんの鈴虫が、夜になってもなかない。気にしていたら、翌朝になってやっとなき出す。妻は、
「おともだーち、なき出したよ」
 といってよろこぶ。

庄野はハーモニカ、妻はピアノのおさらいが日課。鈴虫がそれに聞き入って、しばらくしてなき出すように思える。子どもたちが幼かった頃、いっしょに音楽を楽しんだ。オペラの名曲で「おともだーち 待っていーる」と聞えるところがあって、みんなで笑いあったことを思い出す。妻はそのこともあって、鈴虫を「おともだーち」と呼ぶ。

やまださんから、「なかなくなったら、持って来て」と言われていた。10月半ば、そろそろお返しする日が近づいたようだ。ちょうど大阪に墓参りに行くので3日程留守にする。返す日が来た。

 山田さんからお預かりしたかごの鈴虫に、こんなに情が移るとは思わなかったと、家に戻ってから妻と話す。夜のおさらいで妻がピアノを弾き出すと、はじめはその音色をきいていて、そのうち自分たちもかごの中でなき出す。一日の終りに私がハーモニカで昔の唱歌を吹くと、このときも居間の縁側に置いたかごの中ではじめは黙ってきいていて、それからなき出す。リーダーがいるらしく、一匹がなき出すと、おくれてコーラスが始まる。
(略、夫婦で出かけて夜遅くなったことがある)
 帰宅して、鈴虫のかごを置いてある玄関の電燈をつけると、鈴虫がうれしそうになき出した。「お帰りなさい」というふうに聞えた。家の人が誰もいなくなり、暗くなっても電燈はつかず、まっくらのままで、「いったい、どうなったのかしら」とかごの中のおともだーちは、心細くなっていたにちがいない。そんなことがあったのを思い出す。

 鈴虫の好きな茄子をかごに入れて山田さんにお返しした。

 ご近所とのつき合い、子どもたちと孫たちのこと、文学仲間たちとの交遊、家の工事、夫婦でお出かけ、庭にやって来る小鳥のこと……、夫婦は結構忙しい。
 もうすぐ孫の一人が結婚する。夫婦はその日を楽しみにしている。妻が山田さんにお願いしたドレスが出来あがった。

……山田さんから帰って家で妻が試着したうすい水色のニットドレスを見て、私は気に入った。山田さん。ありがとう。

(平野)
本書は春に「本は人生のおやつです!」の書店員さんたちによる古本市で購入した。
我が家の近所では8月初めから鈴虫が朝夕ないている。

2014年8月22日金曜日

親子の時間


 『親子の時間 庄野潤三小説撰集』 
岡崎武志編 夏葉社 2400円+税

 庄野潤三19212009)は大阪市生まれ、1955年芥川賞受賞。父は有名私学の学院長、潤三も戦後教師をしている。兄・英二は児童文学者、弟・至も小説家。中学時代の先生が伊東静雄、大学の文学仲間に島尾敏雄……、文学的人間関係は本書の小説、解説で確認いただきたい。

 昭和のインテリ中流家庭の幸せな情景、と言ってしまえば終わってしまう。いわゆる私小説になるのでしょうが、やりきれない葛藤とか憎悪とかはない。ホームドラマと言えば怒られるか。
 編者の岡崎は「親子に親子で読んでほしい」と書く。それは岡崎の悲しい体験からきている。そのことについては彼の解説を読んでください。庄野作品を愛読していて家族のこと、子どもたちのことを自分に重ねていた。

「私は庄野一家の子どもになりたかったのだ」

文芸評論家・河上徹太郎との家族ぐるみの交際が綴られている。河上家には子どもがなかったようで、夫妻がこの集まりを楽しみにしていたことがよくわかる。クリスマス、正月、季節ごとに互いの家を訪問し、散歩、食事、歌、寸劇、ピアノ連弾、プレゼント交換……、子どもたちは家に戻るとお礼の寄せ書きを書き送った。

庄野家では河上をいつからか「てっちゃん」と呼ぶ。長女が「てっちゃんメモ」という記録を書いている。

ある年のクリスマスイヴ、庄野家で会食。豪華で心のこもった料理のなか、河上夫人の好物の銀杏は次男が校庭で拾ってきたもの。子どもたちの劇は「森の赤ずきん」、長男が猟師で「河上007」という役柄(河上は狩猟が趣味。映画「007」が人気だった)。この時、河上に長男がお手製の杖を贈った。

……河上さんは絶句して杖を抱え込むようにした。

翌年のクリスマス。河上に長女が手編みの部屋履き、次男が版画(河上が猟をしている場面)、夫人に次男が工作で作った壺(マシマロ入り)、お手伝いさんに長女が鍋つかみ。この年、長男は右手捻挫で工作できず。

……河上さんは喜んで何度も有難うといって、みんなの手を握りしめた。

 子どもたちの余興を楽しむ。食事中、子どもたちと目が合うと「おいちい!」と喜ぶ。猟の腕前を自慢したいのに、いいところを見せられないのを残念がる。実の孫たちといるようだ。当時の代表的知識人の微笑ましい姿。
 
 
(平野)