2014年8月4日月曜日

豪姫


 富士正晴 『豪姫』 新潮文庫 1991年(平成34月刊

 元は『淡交』連載(1960年)の「たんぽぽの歌」。河出書房新社から単行本。79年改題して六興出版から。映画化(92年、松竹、勅使河原宏監督、宮沢りえ、仲代達矢他)を機に文庫。

目次

織部雑記帳
ウス雑記帳

解説 津本陽

 利休自害の後、秀吉から茶頭に任じられた古田織部。秀吉と会見の後、聚楽第を出ようとしていたら豪姫(前田利家の娘で秀吉の養女)が声をかけてくれる。邸に連れて行けとせがむ。姫は男の装束、伏見あたりで馬の上で居眠り。織部は物思いにふける。利休のこと、茶事と権力者、自分の立場……。馬が止まる。姫の姿がない。道端にしゃがんでいる

 やがて豪姫は大事そうに握った拳の中を嗅ぎながらゆらりと馬に乗って、おれのわきに馬を寄せて来た。
「小父。この拳の中を嗅いで見い。何かわかるか」
 おれはかがみこんで嗅いだが何の香りもせなんだ。
「古織の小父。おれの国の加賀ではまだ雪が降りこめておろうというのに、都ではほれ」
 開いた拳の中に小さなたんぽぽの黄の花があった。
「おれはれんげやたんぽぽが一面に咲いているのを見るのが好きじゃ。小父は好きか」
 おれの答を待たず豪姫はあたりの野を馬の上からゆっくりと眺め渡していた。
「さては、たった一輪の早咲きであったのか。なれど、小さな莟はたくさんに見かけられるな。この次おれが小父の邸へ来る時は、一面のたんぽぽの花ざかりがみられようのう」
 美しい歯を唇の間にのぞかせながら、豪姫は鼻の孔をひろげ、目を細くして、なおも野面を眺めつづけていた。柔らかいむっくりした掌の上に、一輪のたんぽぽの黄を支えていた。

 豪姫はたんぽぽの花をながく嗅いだり、観たりしたあげく、「これをやろう」とおれに渡した。おれは有り難く拝領した。たんぽぽの花は小さくても(つよ)かった。だが、豪姫靭い上に実に愛らしかった。秀吉が豪姫可愛がるのも無理はない。秀吉又、時には握り団栗など豪姫から手移しにもらうのだろう。それは豪姫輝き一つ拝領することなのかもしれない。……
(平野)