2014年9月3日水曜日

夕刊流星号


 足立巻一 『夕刊流星号 ある新聞の生涯』 新潮社 198111月刊

目次

第一章《われらの新聞》誕生と隆盛  占領下の発刊 ロンドン・タイムズめざして 横型新聞 七名の報道部員 ……

第二章 新聞界の難民  占領政策の流動 下山事件 二・一ゼネスト 共産党社員追放令 朝鮮戦争勃発 ……

第三章 墓地に建った新社屋  大新聞からの合併案 小共和国の夢 破防法案成立 大新聞の進出と陰謀 編集局長辞任 ……

第四章 零細新聞社の運命  窓のない新編集局 転変する社内人事 学芸欄の消失 給料遅配 社長交替 ……

第五章《われらの新聞》の最期  ヤクザ介入 煽情的新聞記事へ 不当販売競争 社長拘留 発刊十年めの崩壊 ……

 その戦後の新興新聞を《夕刊流星号》とよぶのは、社章が流星に似ていて、そして流星のように光芒を曳いて虚空の暗黒に消え去ったからである。
 しかし、そのマークは当事者にとってはもともと彗星のつもりであった。それは創刊まもなく公募され、二千三百三十二点のうちから選ばれ、社告には「星と大阪の大の字を図案化し、右肩の二本の車線は光芒をあらわす」とうたいあげられた。事実、それは新聞界の彗星、新興新聞のスターといわれた輝かしい一時期を持った。

「夕刊流星号」とは夕刊新聞「新大阪新聞」のこと。1946年(昭和2124日創刊。主筆による創刊の趣旨。

 新しい世界の運行に新しい新聞が要る。ここに敗戦から立ち直る新日本の一旗手とした《われらの新聞》を発足させる。
(民主主義の徹底、清新な報道、婦人の地位向上に努力、勤労者・中小商工業者の代弁者となることなどを述べる)
《われらの新聞》は、国民大衆の生活確保の機関として、平和新日本成就のために、新しく生まれ出たのである。堂々とやってゆこう。

 占領軍は、新聞用紙割り当て管理権を掌握。既存の新聞社をおさえ、地方新聞、郷土新聞を育てる政策をとった。言論の中央集権ではなく地方分散をねらった。
 大新聞社は2ページの朝刊しか認められなかった。しかし、社員は復員してくるし、朝刊だけでは輪転機の効率も悪い。そこで、別会社で新興新聞をつくり、人員をそちらにまわし、印刷を引き受けた。
「新大坂新聞」の幹部も「毎日新聞」の出向だが、有能なジャーナリストだった。彼らの合言葉は、日本の『ロンドン・タイムズ』をつくる
 講和条約が成立すると、新聞の発行が自由になり、「朝日」も「毎日」も夕刊を出せるようになった。幹部たちは「毎日」に復帰。本社にとって傍系の夕刊紙は無用、邪魔な存在になる。
 夕刊紙は「転落」「腐敗」していく。

足立は軍隊で負傷し療養中に敗戦を迎えた。第一神港商業の国語教師を経て、46年暮れこの新聞社に入る。学芸部長、社会部長、編集総務を歴任。56年退社。
(平野)