2014年10月31日金曜日

現代秀歌


 永田和宏 『現代秀歌』 岩波新書 840円+税

 2013年刊『近代秀歌』(岩波新書)以降の歌人100人を取り上げる。

第一章    恋・愛――ガサッと落葉すくふやうに
第二章    青春――海を知らぬ少女の前に
第三章    新しい表現を求めて――父よ父よ世界が見えぬ
第四章    家族・友人――ふるさとに母を叱りてゐたりけり
第五章    日常――大根を探しにゆけば
第六章    社会・文化――居合はせし居合はせざりしことつひに
第七章    ――ひまはりのアンダルシアはとほけれど
第八章    四季・自然――かなしみは明るさゆゑにきたりけり
第九章    孤の思い――秋のみづ素甕にあふれ
第一〇章 病と死――詩はそこに抗ひがたく立つゆゑに

 私たちは、日々の暮らしのなかで、はたしてどれだけの思いを相手に伝えられているだろう。伝えるべき相手が大切な人であればいっそう、伝えるべき内容が大切なことであればいっそう、それを日常の言葉で伝えることが絶望的にむずかしいことに気づくものである。大切な人に大切なことを伝えようとすると、日常の言葉ははなはだしく無力である。言葉に出してしまうと途端に嘘っぽく聞こえ、気障に見え、しかも思いが深ければ深いだけ、その何分の一も表現できていないことに愕然とする。
 そんなとき、歌でなら伝えられるということがある。歌を表現の手段として持つということは、そのようなどうにも伝えにくい、心のもっとも深いところにハッスル感情を、定型と文語という基本の枠組みに乗せて、表現させてくれるものなのである。(略)
 そしてそうした歌の力は、誰かに読まれることによって、さらにいきいきした力を発揮する。……

 歌は「多くの人に口ずさまれてこそ生命をもつ」ものであるが、「人たちが身を削って作った歌を積極的に残してゆく」ことも大切。いい歌を作ることも、いい歌を残していくことも歌人の責任、と言う。

 「恋」の歌から。

 たちまちに君の姿を霧とざし或る樂章をわれは思ひき  近藤芳美

 戦争中、近藤は朝鮮にいた。宿泊歌会で会員たちが金剛山に集まる。そこで運命的な出会い。一足先に山を下りる彼女を見送る。

 山を下っていく少女を見送りつつ、その時、どんな「樂章」を思ったのか。(略)戦争へなだれようとしている〈外地〉にあって、なお一知識人として流されず立っていたいとする、若い学生の自負を見る思いがする。〈愛の思い〉は現在の若者に変わることはなくとも、戦争あるいは徴兵という否応のない強制を前にして、率直な愛の表白を阻む環境が若い男女にたしかに存在したのである。……

 「災害」もある。

 居合はせし居合はせざりしことつひに天運にして居合はせし人よ  竹山広

 1995117日、阪神・淡路大震災。

 ある事件が起こる。災害に見舞われる。犠牲者が多数でる。死ぬ必要も、必然もまったくなかった人々が、たまたまそこに居合わせたというだけで、事件や災害に巻き込まれ、命を落とす。なんという不条理なと嘆くが、人の命というものは、そんな風にして決まってゆくものなのかもしれない。(略)
 竹山の一首は、まさにその通りだと頷かせるだけの説得力をもっているが、それが殊更深い感慨をもって読者に受け容れられるのは、もう一つの竹山広の個人史があるからである。竹山広は、昭和二〇年八月九日、長崎で原爆に遭遇したのである。……

 全身焼けた兄を救護所まで運ぶが息絶える。そのことを詠えるまで25年の時がかかったそうだ。

(平野)しばらくお休みします。

2014年10月30日木曜日

アサヒグラフ 東山魁夷


 『アサヒグラフ別冊 ’81夏 美術特集 東山魁夷』朝日新聞社 19818月刊

魁夷作品 「残照」他66点(オールカラー)
スケッチ 〈中国の旅〉
東山魁夷の芸術  本間正義
東山さんの人柄  今日出海
旅で深く知った人間性  安達健二
先生の絵に故郷の景色を見た  ゲプハルト・ヒールシャー
作品解説  米倉守

東山魁夷は風景画家である。初期の「私の窓」という作品に、静物的なモチーフが見られる以外、百パーセントといっていいほど風景画に終始している。しかも人間の営みを感じさせる家や通りや橋などを描いても、そこには人っ子一人いない風景なのである。生きものといっても、白い馬のいる風景が、一時シリーズ的に描かれた以外は、なにも見つけ出すことが出来ない。これは一体どういうわけであろう。このようにストイックなまでの風景をえがくために、魁夷は自分はこの世の終わる時までつづけてゆく旅人であり、画学生としての遍歴徒弟でありたいと願っている。つまりワンダラーとして自然をえがきぬいてゆく徹底した風景画家なのである。…… (本間正義)

 不遇の時代、自然の姿に深い感動を得た。
 大作を次々に描いていた61歳の時、ドイツ・オーストリアに写生旅行。若き日の留学時代には来たことがなかった「北方の港市」リューベックを訪れた。トーマス・マンの小説の舞台。青年時代に読み、後年再び読み、深く心を打たれた。風土は全く違うが、育った港町・神戸のイメージと重なった。

郷愁とは、遠く離れた者への再会を(ねが)う心であろうか。いや、むしろ、再会を望み得ぬ遠くへ過ぎ去った者に対しての、思慕の情をいうのであろう。
 私は神戸で少年時代を過ごした。マン風にいえば、当時、私の心は生きていたのである。
画家になるために、その港市を離れた。それからドイツに来たのも、もう、三十数年の昔である。画家になる以前のこと、いわば、遍歴(ヴァンダー)徒弟(・ブルシュ)の時代である。あの頃も、まだ、私の心は生きていたはずだ。
 今では、画家になって、いちおうの仕事のまとまりを見たといえる段階――年齢的の上でもそうであるが――に達した。そして、どうだろう、また、もとの振り出しに帰って来たのではないか。
永久に師匠(マイスター)になんかならない方が幸いだと、私は書いたことがある。大きな壁画の完成と、日本の古都を主題にした連作のあとで、この旅に出たのも、遍歴(ヴァンダー)徒弟(・ブルシュ)であった時の曾遊の地を巡ることによって、老い込もうとする私の心に、温かい鼓動が甦ることを希ってのことであろうか。いや、そういう意志的なものではなく、いつも円周運動を描いて歩かされている私の宿命によるのかもしれない。……(「追想の港」『泉に聴く』講談社文芸文庫所収)

(平野)
「ほんまにWEB」月1連載、すべて更新。
http://www.honmani.net/

2014年10月29日水曜日

金山平三(4)




 飛松實 『金山平三』(その4

 飛松は1907年生まれ。小学校教師を経て川崎重工業の社長秘書になった人で、歌人でもある。

「社長にお逢いしたいと変なお爺さんが見えています」と受付嬢が告げて来た。
 なるほど長身痩躯、彫りの深い容貌の老翁が浴衣がけに禿()び下駄で、縁の大きい日よけの麦藁帽を手に立っている。その風采にくらべて眼の鋭さがただ人とは思えない。
「手塚さんおられたらお取りつぎ願えませんか、金山です」
 私は社長室へ行った。
「社長、金山とかいう老人が見えていますが、ご存じですか」
「ああ、金山平三だろう。絵描きさんだよ」
 案内した後、さっそく画家名鑑を見ると、洋画家無所属の最上位にその名があった。しかも神戸出身のようである。これが金山平三と私との最初の出逢いであった。昭和二十六、七年頃の真夏のことで、川崎重工業の本社がまだ神戸工場の中に置かれていた時である。

 造船所内を写生したいと言うので案内する。画家からよく写生の希望があって入れてあげるが、たいていの人はあとから作品を買ってほしいと言ってくる。
 平三が来社したのは翌年1月末。正ちゃん帽に毛糸の首巻き、ズボンに帯、下駄履きという格好で受付嬢が驚く。
 夏に描いた絵のことを尋ねると、東京のアトリエにあると言う。平三は気の済むまで作品に手を入れる。作品を金に換えることを考えていない。
 61年(昭和36)社長が平三の「造船所」(1917年、川崎造船所を描いた作品)を会社に飾りたいと、飛松に交渉を頼んだ。平三は、以前から寄付するつもりでいた、礼はいらないと言う。また、アトリエにある作品を散逸させたくない、どこかで一括保管してくれないか、悩んでいた。

「百年二百年後に本物かどうか分って貰うためです……

飛松が社長に相談、新築する本社ビルに展示場兼収納庫を設け、保管することになった。川重は、作品を手離す平三の心中を思い、感謝を込めて平三夫妻にヨーロッパ旅行をプレゼントした。平三にとっては50余年ぶりの渡欧だった。
 川重が預かった作品は神戸新聞の要請を受け、翌年大丸神戸店で展示された。平三が神戸で開催する初めての作品展だった。
 平三の死後、この作品群はらく夫人と川重の合議により兵庫県に寄贈された。

 心血を注いだ作品を愛惜し、手離すことを惜しんだのは、一人ひそかに自ら頼むところがあったからである。目まぐるしく変転してやまない画壇などには重きを置かなかった。五年や十年の流行に左右されるものは本物とは言えない、という確固たる信念のもと、知己を百年の後に待つべく決意していた。

 孤高の芸術家がいて、その人を支える人・応援する人たちがいる。




 写真は本書所収、平三夫妻と著者。(この項おわり)

(平野)

2014年10月28日火曜日

赤瀬川原平


 『櫻画報大全』 青林堂 19777月初版(手持ちは812月第2版)
 
 

 19708月から713月『朝日ジャーナル』に連載したイラストパロディ。71319日号を朝日が自主回収。ヌード写真表紙が過激と思われたが、赤瀬川のイラストページの言葉「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」を上層部が「誤解を招く」と判断。また、雑誌を「包紙」と書いたり、「ドコを乗取ろうかナ?」と他社名を挙げたことも問題視したよう。
 同年6月から8月『ガロ』。他の雑誌や大学新聞にも掲載した。

 

 『超科学紙芝居 虚構の神々』 青林堂 197810月刊
 
 

 774月から『ガロ』に連載した漫画作品集。表題作他全15篇。

 この世の果てがどうなっているのかということは、何と「現代の科学」では説明できない。だけどその果ての向こうにあるあの世からときどき何かがこの世の中にはいり込んできていることを、人類は子供のときからいつも感じつづけて生きている。
 この世は一つのものであるようだけど、この世の果てはいくつあるのだろうか。知覚の果て、意識の果て、時間の果て、空間の果て、極大の果て、極小の果て、その他いくつもの果ての向こうには、それぞれのあの世があるのだろうか。それともあの世はやつぱりまとめて一つなのか。そのことを記憶しながら人類は子供となつてこの世に生まれてくるはずなのに、その記憶は人類の成長する言葉と引換えに紛失していつてしまうのだ。その記憶を取り戻そうと、全力を盡して子供になろうとすることは、あるいは無駄なことかもしれないけれど……(「あとがき」より)
 
(平野)

2014年10月27日月曜日

金山平三(3)


 飛松實 『金山平三』 その3
 
 

 1935年(昭和105月、平三生涯最大というべき事件が起きる。
帝展騒動といわれる帝国美術院改組問題。国家による文化統制。政府主導による美術団体統一――在野の美術団体代表も加えて美術家全員一致の体制づくり――を実現しようとする。洋画部門では東京美術学校校長・和田英作が文部大臣の諮問を受け、画壇の実力者に相談することなく独断で事を運び反発を招いた。平三は恩師・黒田清輝と大先輩・藤島武二に信頼され帝展審査員に抜擢された。黒田亡き後のリーダーは藤島だが、無視された。また、審査で平三は和田とことごとく対立していた。
 
……新人審査員となった金山平三は、つねに厳正な作品第一主義を守ろうとした。それが事勿れ主義、温情主義、各会派均衡主義の一部先輩委員と対立衝突せざるを得なくなるのは当然の成行きであった。

 帝展より在野グループの方が活躍していたことも事実。
 平三は審査委員だが帝展会員ではなかった(会員は政府任命)。次期候補の筆頭であったが、改組で新会員は政治力によることになった。平三ら反対者は帝展を脱退し、在野団体・第二部会を結成した。帝展独立、官展廃止、在野団体補助奨励を目指した。しかし、翌年再び美術院が改組され、旧帝展無鑑査画家全員招待展案が出て、よろめく者が出る。第二部会は分裂する。

……画壇に対する理不尽な官権圧力に、最後まで反抗を誓い合った同志が、甘言につられ安易に敵軍門に屈服せんとする不甲斐なさ。利害得失を計算して行動する芸術家たるに値しないその俗物性。あまつさえ同志を疑い傷つける卑劣さ。そうした画壇に心から愛想がつき嫌悪を覚えた。最も大切な画家本来の意地はどうなったのだ。自分はあくまでその意地を通して見せる。
 画壇と訣別する。
 

 平三は写生旅行で山形県大石田町をたびたび訪問。戦中は最上川対岸の横山村に疎開している。

……大正十二年初めての来訪の時、言葉が通じなくて外国へ来たようだと書送った彼も、疎開時代には全く町民になり切っていた。写生から帰って、風呂の沸いている家があれば、どこでも気がねなく入れて貰うほどであった。(婦人たちに得意の日本舞踊を教えた)
 人間嫌いと思われていた平三ではあるが、それは権威を笠に着る役人や、記者や画商や、欲の皮のつっ張った連中に対してであった。

 郷里に疎開していた斎藤茂吉もしばしば大石田に来て、平三を訪問。初対面で意気投合した。茂吉の方が1歳上だが、平三を先生と呼ぶ。
 茂吉の弟子の証言から紹介する。町の有力者が二人を招待して食事。茂吉が平三の魚の方が大きいから交換してくれと言う。

「あんたの食いしんぼうは解っているよ」
「いや、これはどうも。……あのうー先生、やっぱりほっつの方がおっけがったっす。ほっつの方ば寄越してけらっしゃいっす、はあ」
 画伯は大きく笑い出し、再び皿の交換をした。……

 茂吉はさらに弟子と招待者の分まで食べて、みやげまで持ち帰ったらしい。気難しいことで有名だが、天真爛漫な一面がうかがえるエピソード。
 二人は一緒に絵を描き、小旅行するなど、茂吉帰京まで親交した。(つづく)

扉・写真。花隈の金山宅。現在は石碑だけが町内の自治会館に残る。
(平野)

2014年10月26日日曜日

金山平三(2)


 飛松實 『金山平三』 その2

 平三は在学中に展覧会に出品しなかったし、帰国後の記念展も開かなかった。飛松はこう説明している。

……彼が作品発表に臆病と思われるほど慎重だったのは、生来の性格と思うより他はない。……自作に対する批判反省が人一倍厳格で、瑕瑾をも許さず十全を求めてやまなかった性格によるものと思わざるを得ない。

 帰国後の肉体的・精神的不調もあった。
 初めて文展(文部省美術展覧会)に出品したのは1916年(大正5)、「夏の内海」と「巴里の街」。前者は特選第二席で文部省買い上げ(現在東京国立美術館蔵)となった。翌年、「氷辷り」が特選第一席。もう一作「造船所」を出品、神戸の川崎造船所を描いたもので、これを機に同社社長と終生親交を結ぶことになる。さらに翌年、文展無鑑査推薦作家となり、帝展(帝国美術院、文展から衣替え)審査員。

 1917年、御茶ノ水女子高等師範教授・牧田らくと見合い。彼女は東北帝国大学で数学を学んだ日本最初の理学士。金山家と昵懇の幼稚園園長を通じての紹介。出会いから結婚まで3年を要した。互いの仕事、暮らす場所、経済的なこと、相続のことなど難題がいっぱい。らくは東京で教師、平三は写生旅行で全国に出かけ、時には海外にも行く。金山家を平三が継いで家業を見てくれれば父・春吉は安心だし、平三も経済的不安はなくなる。しかし、画家の道は捨てることはできない。苦しい胸のうちをらくに書き送っている。

「東京に行くにも食うて行かねばならぬ事も、神戸の留守宅を淋しくせぬ事も心得ねばならず……

 しばらくは東京で家を借り共同生活。らくは教師を続け、平三はそこを足場に全国をまわり、神戸を行き来することになる。らくは優秀な教師であり研究者でもある。周囲も彼女が家庭に入ることを惜しむ。東京女子大学が創立され、彼女に教授の話がきた時、平三が学長に断わった

「一体あなたの学校で妻が数学を教えねばならぬ娘達は幾人ほどあるのですか」と茶目気たっぷりな顔つきで問いかけた。「一組二十人位ですが」とのとの答を引きとった金山は、「二十人ばかりの娘っ子に役に立たぬ数学を教えるのと、この金山平三をして後世に名を残す名画を思いのまま描かせるのと、妻としてのつとめはどちらが重いと思いなさる……

 自分勝手な論理だが、それほど大事な存在だったし、彼女も平三の才能を認めていた。教師も辞め、暮らしは彼女の貯金に頼ることになる。平三の審査員の報酬がどれくらいあるのかは不明だが、画材や旅行にも足りないだろう。後にアトリエを新築する時は理解ある財界人4人が出資してくれている。平三は作品を贈って償った(特に金額の多い1人には半分を現金で返済した)。他にも二人の人柄を見込んだ援助者がいた。
 らくの苦心はお金のことだけではない。機嫌よく絵が描けるよう環境づくり・雰囲気づくりにも気を遣った。日本舞踊の好きな平三のため自分も地唄や三味線、社交ダンスを習った。平三が絵に向かっている時、らくは数学研究に取り組んだ。

 五十年近い夫婦生活を通じて、二人はただの一点も、自分達から絵を売りつけたことはないという。画家の夫人の中には、自らマネージャーとなって作品の頒布に努力する人もあるが、売り絵は絶対に描きたくないという平三の意を体して生活の困苦と闘って来たらくの毎日は、想像以上のものがあったようだ。子供がないのは、産めなかったのでなく、産まなかったのだという。育児や学資のため、換金し易い売り絵を心ならずも描くことがあっては、という遠慮からであった。

「描くのは主人ですが、出来た作品は二人の子供だと思って大切にしました。たとえ一点でもこちらから身売りなどさす気にはなれませんでした。ただ、相手によってはお嫁にやるつもりでお譲りしたことはあります。……(つづく)
 裏表紙の絵「菊」(1945~56)。

(平野)

2014年10月25日土曜日

金山平三


 飛松實 『金山平三』 日動出版 1975年(昭和509月刊


 金山平三18831964)は元町通3丁目の生まれ。父・春吉は当時旅館蓬莱舎番頭。母は平三が生まれて3年後に亡くなり、継母・すてに育てられた。すては5丁目で料理屋を開業した後、花隈に移って芸妓置屋を始めた。花隈の金持ち・土地持ちと評判だった。
 平三は神戸尋常小学校卒業後、高等科を1年で退学し、同志社予備学校に進学するが、寄宿舎の炬燵から失火、半焼、放校処分となった。奈良中学に入学、いたずらすぎて寄宿舎を追い出され、校長の家の近所に下宿させられる。絵を描き始め、教師から高い評価をもらう。ここが廃校になり、東京の立教中学に転入。中学卒業に10年かかっている。本人の腕白もあるが、運も悪かった。
 1904年東京美術学校洋画科入学、黒田清輝に師事。学業・品行とも優秀で特待生、首席卒業。1912年からフランス留学。美術学校留学生の資格だが、費用は自費。黒田から官費留学の話があったものの、帰国後学校勤務が条件。平三は断わった。費用はすてが工面してくれた。留学中にすてが他界、春吉は送金のたびに持ち家を処分し、4年間で自宅だけが残った。
 平三はモンパルナスに居住、ヨーロッパ各地を旅行。ちょうど第一次世界大戦で、一時パリから避難している。当時パリ滞在中の文化人は、梅原龍三郎、島崎藤村、藤田嗣治、安田曾太郎、与謝野鉄幹・晶子ら。皆交流があった。
 画家仲間の証言がある。平三は絵ハガキに余分に切手を貼るので「モッタイナイヂャないの」と返信で叱られている。また、いつも腹巻にお金を入れていて、「金山の腹巻」は仲間の間で有名だった。
 1511月ドイツ軍攻撃の危険の中帰国。春吉は神戸港で4年ぶりの息子を迎える。

 下船が始まっても、なかなか平三は現われなかった。ほとんど終わったかと思われる頃になって、ようやく舷側を下りてくる姿が目についた。独特の鋭い眼光は変わらぬながら、蓬髪弊衣、痩せ細って西洋乞食さながらの恰好で現われたのに春吉たちは仰天した。フランス帰りなどというモダンな幻想に富む言葉とは似てもにつかぬ平三の風体であったからである。春吉は後々まで、
「あの時ほど人前で恥ずかしい思いをしたことはなかった」
 と語っては、いつも大笑いをしていたという。

 正月、平三は伊勢神宮に無事帰国の参拝をしている。フロックコート・オペラハットの正装であった。(つづく)
 表紙の絵は「雪丈余」(191734)。

(平野)

2014年10月24日金曜日

二〇世紀の歴史


 木畑洋一 『二〇世紀の歴史』 岩波新書 860円+税

 1946年岡山県生まれ、成城大学法学部教授、東京大学名誉教授。イギリス帝国史、国際関係史。

序章 「長い二〇世紀」
1章 支配被支配関係の広がり――帝国主義の時代
2章 帝国世界動揺の開始――第一次世界大戦とその後
3章 帝国世界再編をめぐる攻防――世界恐慌から第二次世界大戦へ
4章 帝国世界の解体――第二次世界大戦後の時代
終章 「長い二〇世紀」を後に

 20世紀の歴史的事件といえば、二つの世界戦争、ロシア革命、大恐慌、冷戦、ソ連崩壊などを思い浮かべる。
 本書は20世紀の歴史だが、その起点を1870年代に求める――帝国主義時代の始まり。1876年ベルギー王のアフリカ探検に始まるヨーロッパ諸国によるアフリカ分割、領土争奪戦だ。
 では終点は?
 21世紀とはいえ、アフリカ各地の紛争、パレスティナ、イラクはじめ中東の戦争、大国内の民族独立運動、テロ……、まだ「二〇世紀」の問題を引きずっているのではないか?

 本書の立場は、

……帝国主義の時代にできあがった、世界が大きく支配する側と支配される側とに分かれ、支配される側の人々の住む地域が主権を奪われ政治的独立性をもたせないような世界の仕組みは、暦の上での二〇世紀前半位起こった二つの世界大戦によって大きく崩れ、第二次世界大戦後には、それまで支配される位置に置かれていた人々がその位置を脱して自らの国家を作り上げていった。世界の広大な地域の人々が主権を奪われていた時代と、主権行使にさまざまな障害があるとしてもそうした人々が独立した主権国家の構成員となった時代との間の違いは、きわめて大きい。

 よって「二〇世紀の終期」を1990年代初めとする。
 アフリカ諸国は90年代にほぼ独立国家になり、南アフリカではアパルトヘイト体制が集結した。また、ソ連および東欧社会主義国の崩壊も帝国支配の時代の終わりを示すもの。1870年代から1990年代初頭を「長い二〇世紀」として見て行く。
 国際関係史では「短い二〇世紀」論がある。第一次世界大戦からソ連崩壊まで、またはロシア革命からソ連崩壊まで、というもの。しかし、これらは「あくまでもヨーロッパ世界を中心とした時代区分」で、本書はヨーロッパ以外の地域――植民地化された地域を視野に入れる。
 世界のあちこちに話が行くので、アイルランド、南アフリカ、沖縄の3地域を「定点観測地域」として、各章の最後で時代ごとの変化を見る。いずれも「帝国世界のなかで、支配する側と支配される側の狭間に立った地域=帝国世界の重層性をよく示す地域」。

 沖縄を見てみる。
 第1章。「琉球処分」で日本が沖縄を編入したのは1879年(アフリカ同様、起点の年代に見事に合致している)。日本最初の植民地ともいえる。なぜなら、本土の人は沖縄の人たちを差別の対象「支配される民」にしていた。一方で沖縄の人たちが「支配する民」として、アイヌや台湾、朝鮮の人たちを「支配される民」としたことも事実。
 第2章、日本は戦争に巻きこまれなかった。しかし、総力戦の観点から「徴兵制」について見てみる。1873年徴兵令施行、沖縄では98年になってから。日本による支配への抵抗を考慮した。1910年沖縄で徴兵拒否者が出た。また、戦争で砂糖相場が急騰して沖縄の糖業も活発になったが、長続きせずに戦後不況。その結果、沖縄からの海外移民が増えた。日本全体の1割を占めた。
 第3章、不況が回復しないまま世界恐慌。沖縄振興政策がとられたが、戦争が進行すると削減された。戦争で占領した地域に沖縄からの移民者がまた増える。そして、戦争末期、激戦地となり、15万人ともいわれる犠牲者が出た。
 第4章、沖縄はアメリカ占領下、帝国の植民地的状態。米軍基地が拡大し、軍事拠点になった。日本復帰後も基地は残された。経済的には振興政策でカネがつぎ込まれたが、県民所得は長く全国最下位だった。

「長い二〇世紀」の終焉も、沖縄においては、大きな変化とは結びつかなかったのである。
 
 大国によって植民地にされ、支配され、分割され、差別され、搾取され。今もその影響で紛争が続いている地域もある。民族対立、宗教対立もある。「長い二〇世紀」を引き継いで、さらに暴力が拡大しているのではないか?
 著者の見解。

……一九九〇年代初めには世界で五〇以上起こっていた戦争・内戦が、二〇〇五年には三〇以上というレベルに減少したという計算も行われている。一九九〇年代に内戦で荒廃した国、たとえばルワンダは、現在平和な状態の下で繁栄を追求しつつある。
(まだ暴力がある。「テロリズム」対「反テロリズム戦争」、とくに中東)
 人と人とが差別されて、支配と被支配の関係が世界を覆い、その構造の下で二つの世界大戦を頂点として暴力が偏在していた時代、そのような時代であった「長い二〇世紀」が過ぎ去ってすでにかなりの年数が経過したいま、暴力的契機をさらに抑え込み、この二一世紀を平等と平和の時代にすることが私たちには求められているのである。

(平野)
平和と平等の社会はまだ遠い。

2014年10月23日木曜日

罰せられざる悪徳・読書


 ヴァレリー・ラルボー 岩崎力訳 
『罰せられざる悪徳・読書』 コーべブックス 1976年(昭和516月刊

 ヴァレリー・ラルボー18811957)、フランス・ヴィシー市生まれ、詩人・小説家・翻訳家。英語他ヨーロッパの各言語に通じていた。35年脳溢血で倒れ、亡くなるまで半身不随・失語症に陥った。裕福な家庭だったが、家・土地を処分せざるを得なくなり、蔵書も売った。幸い蔵書はヴィシー市が買い入れ、現在も図書館に約25千冊が保存されている。

 本書は192324年にかけて執筆された読書論。

 冒頭、アメリカの詩人、ローガン・ピアソール・スミス(18651946)の詩を引く。

 慰め
先日、打ちひしがれたような気持で地下鉄に乗っていたとき、私は、われわれ人間の生活に留保されたさまざまな喜びのことを考えながら、そのなかに慰めを探し求めていた。しかし、ほんのすこしでも関心を払うに値する喜びはひとつとしてなかった。酒も栄光も、友情も食物も、愛も徳の意識も。してみれば、このエレヴェーターに最後まで残り、それらに比べてより陳腐ならざるものはなにひとつ提供してくれそうにもない世界に、ふたたび上っていく価値がいったいあるのだろうか?
だが突然、私は読書のことを考えた。読書がもたらしてくれるあの微妙・繊細な幸福のことを。それで充分だった、歳月を経ても鈍ることのない喜び、あの洗練された、罰せざる悪徳、エゴイストで清澄な、しかも永続するあの陶酔があれば、それで充分だった。

 ラルボーはこう続ける。

 事実、読書は一種の悪徳なのだ。私たちがつねに強烈にな愉悦感をもってたちかえる習慣、私たちがそのなかに逃避し、ひとり閉じこもる習慣、私たちを慰め、ちょっとした幻滅の憂晴らしともなる習慣、そういった習慣がすべて悪徳であるように。しかしそれはまた、美徳に導かれるかのような幻想、それが垣間見させる至高の叡智に導かれるかのような幻想を私たちに抱かせる悪徳でもある。……
 読書が悪徳だというのは、また、つぎのような理由にもよる。すなわち、経験に照らしても統計のうえからも、これは、他の悪徳と同じく、例外的で異常な習慣だということ。正常な人間が本を読むのは職業上の必要に迫られてのことであり、さもなければ仕事や労苦から気をまぎらわせるためである。読書の楽しみだけのために読書し、熱心にその楽しみを追い求める人間は例外的存在なのである。ほとんどすべての人間が文字を知っており、また多かれ少なかれ本を読むからといって、その事実に欺かれてはならない。文字が読めるとはいっても、大部分は、自転車に乗れるとか電話が使えるとか、車の運転ができるとかいうのと同じことであり、賭博師は守銭奴が少数であるように、読書人は少数派なのである。……

(平野)
関西の蚤の市で見つけた。
【コ】時代、「出版」には呑む時以外関わっていない。というより、入社したばっかりで、どの本見ても、「ヘー! ホー!」しか言えなかった。あの出版物たち、今となってはなかなか入手できない。

2014年10月22日水曜日

10.19 関西蚤の市


 10.19(日) 関西蚤の市 at 阪神競馬場 
(イベントは終了しました)

 久々の阪急今津線仁川駅下車。晴天で何より。家族連れ、カップルで満員。雑貨・古着・印刷のお店が並ぶ。
 目指すのは古本屋さん。出品は絵本・料理本などが目立つ。

 
大阪「本は人生のおやつです!!」 http://honoyatsu.web.fc2.com/
 
岐阜「徒然舎」 http://tsurezuresha.net/
 
 
 

 顔見知りの皆さんにご挨拶。せっかくの楽しい市なのに、私は前日の深酒がたたり散策不能、早々に退出。
 探していた本2冊購入。
(平野)



2014年10月21日火曜日

10.18「髙田郁講演会」


 10.18「髙田郁講演会」

10.18 1400~ 神戸市産業振興センター内 ハーバーホール

神戸新聞ブッククラブ(KBC)主催
 
 

 主催者のご好意でF店長、Y子さん共々控え室まで入れていただき、終了後の呑み会にも参加。スタッフ用缶バッジまでもらった(ポストカードは全員もらえる)。ありがとうございます。同席した皆さん方は、「なんで閉店した店のおっさんが」と思われたかもしれません。すみません、おじゃましました。

 講演会の司会は毎日放送アナウンサー・水野晶子さん。髙田さんとは漫画原作者時代(ラジオの台本も書いた)からのつき合いで、小説を書くことを勧めてくれた恩人。現在もイベントに協力、二人が並ぶとトーク会も漫才になるという息の合った名コンビ。髙田さんは水野さんの番組「しあわせ五・七・五」(MBSラジオ、毎週土曜日515~)の川柳常連投稿者だが、毎回ボツ。ヘタらしい。情実コネとか友情とかオマケなしの関係がよい。でも、漫才のネタにはなる。

 高田さんはいつものように化粧なし、髪もセットしていない、服装も地味。顔出し(写真・映像)しない。それでも聴衆に家に帰ったら「キャメロン・ディアスみたい」と報告せよと要求する。誰もしないが。

 さて、講演。「みをつくし料理帖」完結した今だから話せる制作秘話を披露。
 全10巻、ストーリーは最初から決めていた。例外は小野寺数馬(御膳奉行)、編集者の意見で「謎の武士」を登場させた。
 主人公・澪の料理人の道に大いに関わる数馬元斎だが、ファンの支持は真っ二つに分かれるそう。
 ファンに不評だった又次の死も最初から決めていたこと。髙田さん自身一番思い入れのある男性が又次だった。その死は数馬派・元斎派両方から非難された。

 聴衆の皆さんは熱心なファン、次々明かされるエピソードに一々納得の声を上げる。最後の質問コーナーでも、「化物稲荷の世話は誰がするのか」「太一の将来は」など、皆さんの登場人物への思い入れの強さがわかった。

髙田さん、水野さん共、【海】のことに触れてくれた。町の本屋への思いも語ってくれた。感謝感謝。

 会場で懐しいお客さんたちにもお会いできた。よかった、よかった。

 当日は虎団の日本シリーズ出場が決定し、呑み会は大盛り上り。鯉ファン・燕ファンは肩身が狭いが、まあ毎年残念の虎ファンに花を持たせてあげましょう。
(平野)

2014年10月20日月曜日

金山平三全芝居絵展目録


 『金山平三全芝居絵展目録』 編集・発行 朝日新聞東京本社企画部 1971

「金山平三芝居絵展」(東京会場 新宿小田急百貨店 昭和463月)、「芝居絵寄贈記念 金山平三名作展」(神戸会場 兵庫県立近代美術館 昭和464月)の図録。


 
 金山平三18831964)は神戸元町生まれの洋画家。1970年、遺族が多くの作品を兵庫県に寄贈し、県立近代美術館開館となった。この展覧会も「芝居絵」全193点寄贈の記念。同美術館には「金山平三記念室」が設置されている。

 金山が育ったのは花隈。小学生時代から芝居に親しんだ。楠公前や新開地の芝居小屋に通った。

……そのころ神戸の実家近くの広場によく小屋がけ芝居が立ったらしい。毎日のように見に行っては母親を手こづらせ、時には母親の財布から五銭玉をくすねて学校をエスケープ、みつかってはお目玉をくったこともあったとか、首を縮めて語る先生には忘れられない懐しい思い出なのであろう。芝居は先生の少年時代へのノスタルジアではないだろうか。……(竹間吾勝「幻の舞台」)

 昭和三年ころ、入院手術といふ大病のあと、本格的油彩の大作に手がつけられなかったとき、つれづれに描きはじめたのださうであるが、作品を見た藤島武二の強い勧奨に力を得て、興の赴くままに、最晩年まで描き続けたのであった。

「小学校時代に見たものだが、色の調子と、役者の仕ぐさが、今も頭に残ってゐる。大ていの役者の名前も。その代はり狂言の題が分からず、場面だけしか覚えてゐないのも相当ある」(飛松実「金山平三画伯の人と芝居絵」)

……構図といい、役者のポーズや色彩における歌舞伎のトーンに、いささかの狂いもないのだから、よくもまあ数十年も前の印象を、かく正確に再現し得たものだと驚嘆のはかはない。と同時に、それゆえに、これらの芝居絵を演劇史的にも貴重な文化財とすべきだと痛感する。(大鋸時生「金山芝居絵との出会いと歓び」)

 花隈は花柳街だから、金山も幼少時から邦楽や舞踊に親しんでいただろう。自らも舞い、そのポーズを撮影したアルバムが残っているそう。「大黒座」座主も近所に住んでいた。

 金山については面白い話がまだまだあるので、改めて。

 図録の表紙の絵は「せり上がり」(根元草摺引)

(平野)

2014年10月18日土曜日

神戸震災日記


 田中康夫 『神戸震災日記』 新潮文庫 1997年(平成91月刊(手持ち、同年33刷)
 1956年東京生まれ、作家、政治家。
 951月、阪神・淡路大震災発生4日後の21日早朝西宮に入った。日用品物資を被災者に手渡してまわった記録。96年新潮社刊。
 被災地に行くと決めた理由は……、交際中の彼女の実家がある、関西人の血が4分の1流れている、京・阪・神他各都市の風土がそれぞれ好き、過去に交際した女性も関西の人が多い、小説やエッセイにたびたび題材にしてきた……。宝塚・西宮・芦屋・神戸は地図なしで運転できる、裏道も知っている。

……その知識を活かして、世話になった街に恩返しをしようじゃないか。エエ格好しいの発言を敢えて行なうならば、そういう生理だ。……

 あちこちの市役所に電話でボランティアを申し入れるが「間に合っている」の返事。西宮のカトリック大司教館に電話すると、バイクがあれば物資搬送可能と啓示。大阪在住の知人に50CCバイクを手配してもらい、荷台に衣装ケースを括りつけリュックを背負って、

……裏道を走りながら途中で何人かにペットボトルを手渡そうとすると決まって、もっと困っている方にどうぞ差し上げて下さい、と最初は固辞する。阪神間の人々は皆、冷静で慎み深い。
 何を仰る、困っているのは貴方なんですよ、と心の中で叫びながら、教会で知り合った若い信者の青年と共に二日間、全国から教会へ届いた物資をテント生活者や半壊住宅に暮らす人々に手渡す作業を続けた。

 東京と往復して、付き合いのある企業をまわって物資を提供してもらう。

 夙川の土手に桜が咲く迄は週に五日、関西に入って走り続ける積もりだ。大企業を脅して貰ってきた物資を配ってるだけじゃないかと嘲弄されるかも知れない。風呂付きの部屋から出動するなんて偽善だ、と冷笑されるかも知れない。反論は、すまい。が、出来ることを出来る範囲で行なうのがボランティアなのだと思う。そして、阪神大震災とは、イデオロギーに関係なく人々がボランティアし得た、初めての契機となるのではないか。……偶々、物書きという何処に居ても出来る生業だったから、こうして一人赤十字を気取ってられるのだ。

 連載を数多く抱える売れっ子だった。原稿は早朝に片付けた。寒風の中、100キロ前後走り被災者と接した。その活動で見えてきたマスコミ・大企業・為政者・文化人たちの「勘性と温性」の低さを皮肉る。
 それまでも鋭い社会時評をしていたが、これを機に神戸空港建設反対運動のリーダーになった。

(平野)