2014年10月14日火曜日

私の詩と真実


 河上徹太郎 『私の詩と真実』 講談社文芸文庫 20076月刊  解説 長谷川郁夫

 1953年(昭和28)『新潮』連載、翌年1月新潮社(一時間文庫)より出版。第5回読売文学賞受賞。

 河上徹太郎19021980)、長崎市生まれ(本籍は山口県岩国市)、文芸評論家。父(日本郵船重役)の転任で6歳から14歳まで神戸(諏訪山小学校、神戸一中)。東京府立一中、一高(野球部在籍、ピアノを始める)、東京帝国大学経済学部。小林秀雄や同人雑誌を通じて、大岡昇平、中原中也、井伏鱒二、堀辰雄、三好達治らと親交。アンドレ・ジイド全集企画、ポール・ヴェルレーヌ翻訳、音楽評論も。

「詩人との邂逅」

 まだ年よりでもないがさりとて若くもない私の年頃で、青春とは一体何であろうか? ……(略)つまり人は、その青春にあたって先ず情熱を注ぐことは、激しい自己鍛錬によって自分の感受性の形式を確定することである。そしてこの形式の独自性の中に、初めてその人の個性とか資質とか呼ぶべきものが芽生えるのだという風に私は考えている。(ボードレールの詩「私の青春は嵐吹く闇夜に過ぎない~」を引用)人は歳と共に澄んでゆくものである。外に手はない。そして、省みて自分の青春を分析するなど、実に不可能なのである。

 若い頃、日課として東京の街を散歩し、「都会風景の一角の印象を得手勝手な裁ち方で切りとっては蒐集」した。最も好きなのが、「冬の晴れた夕空の下の東京の街」だが、風景から「あらゆるセンチメンタリズムを排斥する」という戒律を課した。

 当時私がものを見る眼は、専ら『富永太郎詩集』一巻によって教えられていた。私はこの詩人と東京一中で同級であったが、彼は当時夭折したばかりで、遺稿集が届けられたのであった。しかも私は生前彼と文学づき合いを全然していなかったので、その繊細な感受性は、専らこの二三十篇の活字になった詩業からのみ学びとったのである。人は作品からは清潔な影響を受けることしか出来ない。私はこの幸運を今では感謝している。

 私は透明な秋の薄暮の中に落ちる。戦慄は去つた。道路のあらゆる直線が甦る。あれらのこんもりとした貪婪な樹々さへも闇を招いてはゐない。

 で始まる「秋の悲歎」と題する富永の散文詩は、彼の死の前年「山繭」といって小林秀雄たちがやっていた同人雑誌に載ったものだが、文学書をまだ多く知らなかった私は、この余り鮮かな肉感と造型性を盛った表現に接して、驚歎したのであった。私は直ちに、こういう実感を実習すべく、街中をぶらつき歩いた。私の感覚の色調は富永のそれよりやや明るいのであったが、初冬の首都の到る所に、そういう情感は容易に手に入れることが出来た。

 富永の詩を実感するため、一人で行きあたりばったりに歩いた。

 然しこうやって風景を採集している私は、或は我々は、決して呑気な美的鑑賞家ではない覚悟を持っていた。それはいって見れば、ものを見る眼を純潔にし、感傷による歪みを排し、そして知的な、人生批評的な要素を入れた、全人的態度で臨むといった野望であった。つまりそれはあまりに知的に低かった当時の文壇への反抗、それからひいては一般社会の俗物に対する嫌悪、そういったものに直結している感情であった。……

 文学体験、知的遍歴を語り、若き日決意した評論家としての覚悟を述べている。

(平野)