2014年2月28日金曜日

かないくん


 谷川俊太郎作 松本大洋絵 
 
『かないくん』 
 
東京糸井重里事務所 1600円+税

企画編集 糸井重里  
ブックデザイン 祖父江慎+鯉沼恵一

 詩人と漫画家がつくった絵本、テーマは「死」。

 60年以上前の友だちの死をおじいちゃんが描いた。

「死を重々しく考えたくない、

かと言って軽々しく考えたくもない」

独り言のようにおじいちゃんが言う。

「この絵本をどう終えればいいのか分からない」
 

 帯に、「谷川俊太郎が、一夜で綴り、松本大洋が、二年かけて描いた」とある。「ほぼ日刊イトイ新聞」サイトに詳しい案内、二人の対談があります。


谷川が一日で書いて、しばらく寝かせていた。絵は松本の名が一番に挙がったが、連載の仕事があり、絵本は「同時にやれる仕事ではない」し、絵本は描いたことがないので、決断まで時間がかかった。

―― 谷川さんはこれを書くまでに82年かかっているともいえます。

(谷川) いや、赤ん坊のときに詩は書いていませんから、ま、60年くらいでしょ。 「谷川・松本対談」
 
(平野)

 スタンダードブックストアあべので買った。
 谷川の「チラ詩」(ナナロク社)ももらった。有料メールマガジンの形で詩を配信するそう。

尚、『かないくん』は「ほぼ日」サイトで購入すると特典があるそうです。

2014年2月27日木曜日

戦争俳句と俳人たち


   樽見博 『戦争俳句と俳人たち』 トランスビュー 3200円+税

神戸で見つからなかった(よう見つけなかった?)本。

著者は1954年茨城県生まれ、「日本古書通信」編集長。著書、『古本通』『古本愛』(平凡社)など。
「戦中から終戦後にかけての表現者たちの言動の推移を示す資料を収集」
「当時の俳人たちは、戦争という強制的な死をもたらす状況と対峙しなければならない中で、どういう俳句表現をし、また俳句をどのように考えたのか」

第Ⅰ部 

山口誓子  モダニズムから自己凝視へ

日野草城  モダニズム・戦火相望俳句の限界

中村草田男 屈せざる者の強さと弱さ

加藤楸邨  荒野・死を見つめるこころ

第Ⅱ部 戦前・戦中の俳句入門書を読む

 
「俳句は創作文学であると同時に、解釈の文学でもある」

“戦争俳句”は戦争を詠んだ句だが、すべてを一括りにできないはず。まず、「戦争」の意味、その重さが各人違う。戦地と銃後。戦地でも前線と後方、また戦傷で病院。銃後でも被害の大小や家族・財産を失ったかどうか。軍隊内でも階級によって大きく違う。また、「俳句」という言語芸術での考え方・表現方法の違いがある。
 しかし、「聖戦」の名の下、共通の感情を押しつけてしまう。

 言葉は人間の存在そのものである。その言葉が無意識のうちに統制されるとき、それは個性の喪失を意味する。俳句表現は何よりも個々の感情の自由な発露であり、それが生み出すイマジネーション、想像を喚び起こす力が、作品の質のすべてである。

 問題は、戦争の時代が終わった後、俳人たちは「その体験を根に、どのような次の表現を求めたか」ということ。著者は、4人を重要な核と考え、彼らの言動と作品を追う。

 もとより私に、俳人たちの戦争責任を問う意図はない。時代の重圧が表現者たちに与えた影響を、当時の資料を通して検証していくだけだ。……

 山口誓子は伝統俳句=有季定型で育ち、新興俳句=自然写生より主観尊重に移った。伝統俳句の季題趣味、新興有季の季感と作家の生活感情、新興無季の詩感という性格の中で、新興無季こそが戦争俳句に要求される「国民感情」と折り合うのにもっとも有利と主張した。
 誓子は戦争俳句を多数作ったわけではない。勇ましい句もあるが、ほとんどは「悲しさを伴うもので、戦意高揚の精神からはほど遠い」。

入営を見送り鉄路の野を帰る

戦場の犬枯山へ引きかへす

著者は、戦争をテーマにしない同時期の作品と比べて、「山口誓子は戦争を詠むには、資質的に馴染まない俳人だった」と書く。

戦争という事態と、それがもたらす高揚感は、誓子のような、個の独自性に自覚的な芸術家をも、しばし迷わすのである。
 装幀 間村俊一  写真 林朋彦
(平野)

2014年2月26日水曜日

かくれスポット大阪


 吉村智博 『かくれスポット大阪』 解放出版社 1300円+税

 1965年京都市生まれ。大阪市立大学都市研究プラザ特別研究員、近代都市部落史・近代寄せ場史。

 文献資料だけではなく、絵図による「地理的位置関係や空間的な把握」で差別問題を考える。

序論 絵図にみる被差別民の世界を歩く

エリア編  道頓堀 千日前 日本橋筋 釜ヶ崎 新世界・飛田 百済・平野 北浜・太融寺 天神橋筋 舟場・北野 中津 京橋・大阪城公園

トピックス編  食肉文化と屠場 有隣小学校と徳風小学校 四ヵ所と七墓 皮産業と銀行 なにわの塔物語

補論  大大阪と被差別民 インナーシティから大大阪へ ディープ・サウス アトラクティブ・ノース 近代大阪と被差別民

あとがき

コラム なにわ人物伝

 

 江戸時代の古地図。近世大坂は、北が天満、曽根崎、東は大坂城、南は道頓堀川、西は木津川の範囲。天満=武士の居住地、船場=商人、上町=寺院。
 現在、キタといえば梅田だが、江戸時代あの場所は墓所だった。
被差別部落に関わる、かわた村(渡辺村、皮産業)、長吏(非人村=犯罪取締の役目)、墓所(三昧聖)は都市の周縁部に置かれていた。この周縁部の存在がなければ大都市・大坂は機能しなかった。

 渡辺村は、元は武士のための武具をつくる集団。平和な徳川時代になると市民生活に欠かせない皮製品(はきもの、太鼓=時間を知らせる道具)を製造した。
 長吏は4ヵ所(悲田院、鳶田、道頓堀、天満)あり、奉行所の御用(捕り方、牢番、乞食・野非人の取り締まりなど)にあたった。
 墓所は7ヵ所(梅田、浜、葭原、蒲生、道頓堀、小橋、鳶田)、火葬場があり、そこの人々は「三昧聖」と称した。

 明治になると、オールドシティの周縁部に病院、学校、屠場、塵芥処理場、監獄など隔離・収容施設、遊廓など遊興施設が作られる。鉄道の駅も。これらは「近代市民社会が必要不可欠としつつも賤視の対象とされる機能をになわされたもの」。インナーシティの誕生だ。

 近代の都市機能を合理的に運用していくための都市計画に依拠しないまま、身分制社会における都市の周縁化の系譜を継承しつつ、排除と包摂の帰結として無秩序かつ無計画に、被差別部落や日雇い労働者街、さらに都市下層社会に近接するか、あるいはその内部に重層的に組み込んでいったのである。 「インナーシティから“大大阪”へ」

(平野)

2014年2月25日火曜日

少年愛の美学


 稲垣足穂 『増補改訂 少年愛の美学』 徳間書店

装幀・飾絵 亀山巌  昭和43年(19685月第1版第1

 私が持っているのは〈昭和514月第2版第4刷〉、三宮にあった後藤書店で買った。当時の栞も入っていた。
 足穂のエロティシズム研究書。1969年日本文学大賞受賞。現在、文庫版も著作集も品切。

目次
   はしがき

第1章   幼少年的ヒップナイド

第2章   A感覚の抽象化

第3章   高野六十那智八十
  
   秋夜長物語
 


 
 
 

 春の宵、洛東名刹の大広間。国宝の絵巻物を前にして客一同が「吐息をついた」。

……閲覧者の大学教授やら、画伯やら、お医者やら、新聞記者やら、各自に恃むところがあった連中だけに、この不思議な、後味のよい、何のねばりつくものもない、しかも余韻がいつまでも味わい続けられるような、いわゆる「ラヴシーン」など既に問題とは成り得ない、僧院版の「うしろ向きのエロティシズム」の香気に打たれて、暫くのあいだ言葉を発することが出来なかった。もはや恋愛的エロスなどは、つばさを失ったセルロイドのキューピットでしかなかったから。

 絵巻は、醍醐三宝院蔵「稚児之草子」。

 足穂はこのエロティシズムを、「雅やかな、喩えば紅と緑の入りまじったもみじ葉のような」と表現する。
秋夜長物語(あきのよのながものがたり)」は足穂訳のお伽草子。南北朝の頃成立したらしい。作者不詳。叡山の学僧と三井寺の稚児との悲しい恋物語。
 文庫版には入っていない。
 足穂が住む伏見から真西(実はちょっと北)の西岩倉に物語の碑があるそう。地図まで書いている。フランスの古城廃墟は「澁澤龍彦君にお委せするとしても、こちらは眼の前に見えている所だから、是非とも出向いてみようと思っている」。
(平野)

2014年2月24日月曜日

ライト兄弟に始まる


 稲垣足穂 『ライト兄弟に始まる』 徳間書店 1970年刊 絶版

装幀 亀山巌

第1章   北カロライナ州キティホーク

第2章   雲雀くらいの高さで

第3章   私のモデルプレーン

第4章   菜の花の飛行機との格闘

附録 武石道之介航海日誌  

武石浩玻在米日記  

武石家訪問記  松村實


 

 足穂は飛行家の夢は断念したが、飛行家の魂はずっと持ち続けた。本書は飛行家たちへのオマージュ。

 私はこの章において、少しは熱を上げてよいであろう。何故なら、ウィルバー及びオーヴィルの両ライトが、彼らの夏期休暇を利用して、北カロライナの人影稀な、荒れはてた砂浜で最初のグライダー実験をやった一九〇〇年の終りに、私は大阪の船場で生まれたのであるから。ライト兄弟の年代記の背後には、私の幼年期を中心にした、二十世紀初頭の難波の着色スライドが隠れている。……「北カロライナ州キティホーク」

 大正2年(191354日、大坂城東練兵場を飛び立った複葉機は京都伏見の深草練兵場着陸寸前に墜落した。飛行士はアメリカ帰りの武石浩玻。足穂少年が須磨海岸で初めて飛行機を見た翌年のこと。
 そのまた翌年、少年は神戸東郊の中学に入学。すぐに飛行機好きで有名になる。
 教室の窓から六甲の山なみが見える。武石の飛行機は後日その山上を飛ぶ予定だった。少年は、あの飛行機が山上を飛んだのなら、と想像をめぐらす。少年は授業で“ひこうきの章”を読まされた時、活動弁士口調だった。級友たちの爆笑を誘ったのだった。
 武石は少年の憧れであった。
 当日、武石機は鳴尾から大阪に向かった。途中の野原は野の花は散り麦畑だった。

 我が少年の日の春遠くに、大阪を経て淀川にそうて北進した飛行機を、搭乗者に舵を取り直す余裕も与えないで伏見の練兵場に突き当てたのは、実は、西宮神崎にかけて毎春豪勢な敷物をくりひろげる菜の花であった、としてもよいようであった。(略)五月の飛行機に菜たねは無理である。でも現象として菜たねは散りはてていても、そこに残留している菜の花の本質は、必ずや異種の飛行機をアタックせずにいなかったであろう。(略)私が云おうとしているのは、神崎川近ぺんに、汽車で通っても眼まいがするくらい咲き誇っている菜たねの香気と、飛行機の翼布のゴムの匂いとの軋轢なのである。「なの花や遠山鳥の尾上まで」(蕪村)の大景観の力線を上空に伸ばして、人工の巨鳥を打ち落とそうとし、機械仕掛の怪鳥は一望の菜畠を威嚇し、全面的に震撼させている。このような相互確執が、たとえば未来派的画面としてキャッチできなであろうかという迄にすぎない。……「菜の花と飛行機との格闘」

 
(平野)
 223日、ジュンク堂難波店で「吉村智博講演会」(『かくれスポット大阪』解放出版社刊行記念)。
 その前に一旦天王寺、GFヨウコさんのK屋訪問。神戸で見つからなかったトランスビューの本、あるかと問えば、「あります」と即答。ヨウコさんエライ! 
 坂崎重盛『ぼくのおかしなおかしなステッキ生活』(求龍堂)がちゃんと文化史の棚にある。ヨウコさんエライエライ! 某大書店では男性ファッションの棚だった。別の巨大書店もそうだった。【海】なら坂崎本と並べる。
 難波に戻ってジュンク堂を目指すが道に迷う。JR難波駅の近くと聞いたので地上に線路があると思っていたら、駅は地下だった。時間ギリギリ到着。
 吉村さんの講演、落語「らくだ」を枕に大阪近代都市形成史をわかりやすく解説。
 終了後出版有志(いつもの呑み仲間)と再び天王寺。スタンダードブックストアあべの店で働いているアカヘルをやっつけに行く。昨年の閉店以来。私ひとりなら抱きしめているところ。アカヘルファンの皆さん、機会があれば覗いてやってください。私もまた棚を見に行きたいどえす。
 それぞれのお店で買った本は後日紹介。
 
 
 

2014年2月23日日曜日

稲垣足穂の世界


 別冊新評『稲垣足穂の世界〈全特集〉』 新評社 昭和52年(19774月発行

稲垣先生のこの頃 萩原幸子  星の王子さま 澁澤龍彦

精舎の人     高橋睦郎  天狗の将来  加藤郁乎 

足穂ノート    保昌正夫  稲垣足穂と谷崎潤一郎 野口武彦

松山俊太郎、巖谷國士、松岡正剛、荒俣宏……他 

 衣巻省三(きぬまきせいぞう)「足穂とヒコーキ野郎」より

 衣巻は関西学院で足穂の一級下。作家、詩人。足穂は東京の衣巻宅に居候したこともある。 

 私たちは彼をタルさんと親しんでいた。今もそう呼んでいるが、彼のお父さんの方に、よりいっそうの面白さを感じていた。

足穂が父親のことをいろいろ話した。歯科医だが日暮れになると閉めてしまうとか、患者がいるのに近所のビアホールに行ってしまうとか。小学生の足穂を須磨海岸に飛行機を見に連れて行ったのも父親。
 足穂は関学在学中、アメリカ人飛行機乗りスミスの助手募集に応募した。

それに応募したのはタルさん一味のヒコーキ野郎どもであった。どんな仕事かというと、滑走路まで陸上機をエッサエッサと押して行くのである。私も見物に行っていた。(略)そんな野郎どもに引き出された機の前に立った小柄なスミスは、ハンチングを逆にかぶって乗り込んだ。直ぐ着火して飛び出した。三十度の角度で昇って行くと、いきなり宙返りをやった。横転し、翼を振って見せ、垂直に昇ると又も宙返りを二度つづけた。「一度やるとくせになるんだ」とタルさんは言っていた。



 
関学卒業後、足穂は東京で自動車免許を取得した。飛行機学校にも入学するつもりだったが果たせなかった。仲間たちと神戸で複葉飛行機を組み立てる。有り金はたいて3ヵ月くらいかかって完成。テスト始動するが騒音と振動で近所から苦情、お巡りさんも駆けつける騒ぎになった。結局離陸できず。この失敗もあるが、足穂は強度の近眼で飛行士には向かなかった。飛行士の夢は捨てざるを得なかった。


 『稲垣足穂の世界 タルホスコープ』平凡社コロナ・ブックス  


 【海】史(16)―2


 『CABIN』(その2

86531日~66日 ギャラリー催事「桂べかこ漫画展」 
612日は「桂べかこミニ寄席」 30分の高座を全5回開演。
7月 ギャラリー催事 「海を愛する男たちに捧げる~海の浪漫展・解体船フェア」 解体する船の船具や備品 を販売。船具の他、船の絵画・版画展示販売。
9月 ギャラリー催事「フェルナンド・ボテロ 版画チャリティー展」売上げの一部をコロンビアの火山災害救援資金に寄付。版画は前年に島田がパリで買い付け。
10月 客注品入荷日数月別調査(1月~7月)
1週間入荷率 4556%  2週間入荷率 7886
11月 三宮のサンパルに「古書のまち」(8店舗)オープン。書店・古書店地図の変化。元町では古書店減少。12月元町駅西口に新刊書店進出。小林自宅の最寄り駅から3km内に8軒新刊書店出現。

12月 「コウベ・ポート・ウオッチング・マップ」(神戸港を考える会、200円)完成。
海文堂オリジナル絵はがき8点(日本丸、海王丸、国際信号旗など)販売開始、80円。
1223日第170号で一時休刊。教科書作業と支店メトロ店応援のため。メトロ店は勤務者の事情や退職などで人事が落ち着かない状態が続いていた。

198729日再開。
210日第172号で「売上税」反対表明。2月末をもってメトロ店閉店を発表。

業界紙「新文化」で『CABIN』紹介記事。 2月 2階海事書コーナー催事 「神戸開港120年記念 Crew’s KOBE」 船舶解体部品とマリングッズ販売。
48日 201号で休刊気持ちのよい接客・応対について、「さりげなく、さわやかで、さっとした応対」をと、7つの注意事項を書いて終わっている。

 


(平野)

2014年2月22日土曜日

足穂 きらきら日誌


 稲垣足穂 『東京きらきら日誌 タルホ都市紀行』 潮出版社 1987年 品切

編集・解説 高橋康雄  装画 まりの・るうにい  
造本装幀 戸田ツトム 松田行正

第一章   ラジエータ       第二章 佐藤春夫を送る辞

第三章 田端時代の室生犀星  第四章 滝野川南谷端

第五章 新感覚派前後     第六章 馬込日記

第七章 木魚庵始末書     第八章 世界の巌

第九章 死の館にて      第十章 幼きイエズスの春に

第十一章 横寺日記      第十二章 方南の人

第十三章 有楽町の思想    第十四章 夏至物語

第十五章 雪ヶ谷日記     第十六章 飛行機の墓地

第十七章 戸塚抄       第十八章 弥勒

第十九章 東京遁走曲

 


 足穂の東京生活は大正8年から昭和25年(19191950、途中何度か明石に戻っており、特に昭和7年から11年までは実家住まい)。約23年の東京生活を書いたものをまとめる。「きらきら日誌」「横寺日記」発表時の題名。

「きらきら」は俗塵にまみれず、孤高の光を保つ星辰の輝きを意味するとともに、貧窮の身でありながら覚醒生活に安定していった足穂の境地を代表させているところがある。足穂にとって魔都東京でもけっして暗黒東京はなかったということで「きらきら」を拝借することにした。(高橋)

 足穂は大正8年関西学院卒業後すぐに上京して自動車運転免許を取得し、明石に戻った。大正10年、『一千一秒物語』の元型を書いて佐藤春夫に認められ上京。

「佐藤春夫に送る辞」は佐藤が文化勲章受賞の昭和35年(1960)に書いたものだが、発表は佐藤の死後、昭和39年。入門から破門されるまでのいきさつを書いている。

「なるほど、君の書いたものをボツボツ読んでいるとオードヴルのような洒落た味がするし、非常に香りのいい煙草を一ぷく喫ったようでもある」

 佐藤の足穂評だが、足穂は入門当初から佐藤の文学的「音痴と知ったかぶり」を批判している。身近にいて佐藤の私生活についても「腑に落ちかねるもの」を感じた。さらに佐藤が文藝春秋べったりになって芥川賞選考や従軍文学者特派に加わったことも我慢ならなかった。

 私が破門になったことには、例の「文藝春秋の喇叭卒」及び「佐藤先生は田舎貴族で、東京へ家を建てに来た」がたたっているが、それより先に、「この先生についていてどうなるものか」が自覚されていたからだ。曽て先生は私に向かって、「僕もはたち代であったならば、君と手を取り合って沈没するところだが、そうは行きませんね。タルホ文学なんかにたばかりはしませんよ、残念ながら」と云ったことがある。私の方はこのままじゃ、「口説き文」「繰言」「替歌」の名人、「耳学問」の大家のお守り役に終りそうだった。先生が何事であれ玄関(・・)覗き(・・)にとどまっているのは、内部に突入するに堪えない脆弱性から来ている。(略、本を読むのではなく見る人、「門弟三千人」吹聴など)先生が言うには「理由は云わぬ。もう逢わないことにしようではないか」先生の門前で面と向かってこう云い渡された時、私は、自分などは退いて、あとは「多士済々」のおみこし担ぎにゆだねることをさとった。……

「破門」の正確な年月日は不明。高橋は、「昭和十年以降、二十年の間と思われる」と書いている。


  【海】史(16)―1

 『CABIN』(その1

  小林による社内通信。
 先に紹介した馬券ビル反対運動の最中のこと。

  846月、東販(現トーハン)の検索発注システムTONETS導入。
853月、福岡宏泰が農協系団体を辞め入社。聞くところでは、入社しばらくして過労で入院したらしい。【海】史には全く関係ない余談。

  864月、小林の書きモノが復活する。社内連絡用通信、B5レポート用紙に手書き、ほぼ毎日発行。小林以外の人間も参加、特に福岡が積極的。
 
 
 
  この『CABIN』から、【海】の出来事を紹介する。

まず、創刊の言葉。

――社内通信としてこの『CABIN』を発行します。海文堂で働く人に少しでも役に立つものにしていきたいと思います。毎日目を通してくださるようお願いします。
 ベストセラー、注目本、ブックフェアの紹介、社内人事など連絡事項の他、小林得意の各地専門図書館案内や取次ルートではない雑誌・書籍紹介、出版用語説明など。

  第1号では、「英検受付」、「サトウ・サンペイフェア」、『陳舜臣全集』(講談社、全27巻)。〈三和銀行読書調査〉の、本を選ぶきっかけについて、「本屋店頭で見て」41%、「書評・広告」30%という回答から、[品揃えと見やすい展示が大切]と呼びかける。
  この年は【海】創業60年にあたる。記念企画として海外の画家を招待して展覧会を開催。
「アイズピリー、ゴリッチ」招待展 52324日 神戸チサンホテル特設会場

「レイモン・ペイネ 愛の世界展」 72829日 元町一番街アートスペース
 新聞紙上での紹介が目立つ。ブックフェアやギャラリー催事など。フェアでは園芸店や酒造メーカーとタイアップしての販売や、独自の切り口に注目してくれている。

「毎日新聞」57日記事。
――フェアやギャラリーの常設などひと味違う本屋を目指すのにはわけがある。神戸市で買い物をする人の流れは、元町から東の三宮に大きく流れており、立地条件が大きく代わってきた。「あの本屋には何かがある、と客が感じてくれるような仕掛けをしないと……」。島田社長の基本的な経営戦略である。――

「毎日新聞」529日でも、「文化の香りのする書店」の記事。
 
(平野)

2014年2月21日金曜日

足穂「美しき学校」


 稲垣足穂 『美しき学校』 発売・仮縫室  発行・北宋社 

装画・稲垣足穂  造本・西岡武良 1978年刊 絶版

美しき学校

童心とゼンマイ  西脇順三郎

あとがきにかえて

美しい町  佐藤春夫

美しい家  堀切直人



 

 
 
 栞は当時はさんでいた筑摩『世界版画』の販促品、カンディンスキー「夜」。


 商店街の原稿で足穂を取り上げるので本を探したら出てきた。ネット検索すると、発売当時佐藤春夫作品の版権で回収騒ぎがあったそう。コーべブックス在籍時のことだが記憶にない。

 「美しき学校」は、1942年同人誌『意匠』に発表した「古典物語」の前半部にあたる。後に加筆改訂された。足穂のいろいろな著作集に収録されたがいずれも品切。河出文庫『彼等(they)』も品切。

「美しき学校」とは足穂(作中では多理)が通った関西学院普通部。大正初め、灘・原田の森にあった

――南むきの二階の窓からは、青い幅広のリボンの海が見え、向って右手に、横になった巨人のような造船台(ガントリクレーン)をとおして、赤い腹をした汽船がたくさんちらばっている。そこから右手にかけて、水蒸気と石炭のけむりにつつまれた工場がかさなり、すぐ眼の下にはまぶしいエメラルドグリーンに燃あがっている槲(かしわ)の梢があった。けれども多理に魅力があったのは、校舎の北がわにぞくする教室からのながめであった。真四角な採光窓が山脈の一部をカットしていた。それは活きている額ぶちだった。……(六甲山系の景観を描写。話は山上を飛行する飛行機の話になる)

 西洋人の教師たち・牧師さん、先輩、同級生たちとの美しい学園生活。とは言いながら、足穂はウイスキーと煙草をポケットに入れている学生だった。今東光が2学年上級で、既に校友会誌にイギリス詩の翻訳を発表していた。

(平野)

2014年2月20日木曜日

玩物喪志


「玩物喪志」

 岩本素白は、「自分の好みに合った、佳いと思ったもの」を大切に思い日常使っていた。疎開中、暇な時は河原で石ころを拾って楽しみ、家々の草葺屋根の形を見て歩いた。雨の日は困った。蔵書は全部焼失。こわれ(・・・)物(茶碗・皿)を撫でたり眺めたり。素白は「玩物喪志」というのには縁がない。むしろ自分は「玩物養志」だと思う。物によって心が慰められている。

――尤も物といっても有り合せの何でも好いのである。何か其処に美しさを見出して愛する心を起こせば良いのである。(略)自分の眼で何かしら美しさを認め、さし当っての利害得喪を離れて心を遊ばせる事が出来れば好い。……――

「玩物喪志」は書経にある言葉だそう。

 澁澤龍彦 『玩物草紙』 朝日新聞社 1979年 絶版(中公文庫は版元在庫あり)

装画・挿絵 加山又造  装釘 栃折久美子
 
 
 

 澁澤は、「物をもてあそんでいるつもりで、じつは観念を、あるいはシンボルをもてあそんでいるにすぎなかった」と書く。

 裸体、虫、沼と飛行船、ミイラ取り、枕、書物、男根、夢、燃えるズボン、衣裳……

「精神も肉体もふくめた私自身というミクロコスモスに関する、一種のコスモグラフィーだと考えてよいかもしれない」

「書物」より

 日本の本にはあまり黴が生えない。フランスの本にはよく生えるそうだ。著述家だから本はふえてゆく。地震が起きて大学者が書物に押しつぶされる物語があるが、自分は学者ではないから「圧死」は空想にすぎないと思いたい。第一、本で「圧死」はカッコ悪くてかなわない。

 肩書きはフランス文学者だが、自分を「学者」と考えたことはない。学問をしているという意識がない。「エッセイスト」ということにしている。ほんとうは「随筆家」を名のりたいが、「世間になかなか通用しないし、そこまで己惚れるつもりもない」。

 石川淳が随筆家の条件を2つあげている。

(1)   本を読む習性があること (2)食うに困らない保証をもっていること

「本のはなしを書かなくても、根柢に書巻をひそめないやうな随筆はあさはかなものと踏みたふしてよい。また貧苦に迫つたやつが書く随筆はどうも料簡がオシャレでない」

 よって澁澤は、「随筆家」を名のりたいとは思ってもその「己惚れ」はない。

――ただ、あくせく原稿を書いて見すぎ世すぎしながらも、本を読んでオシャレをしたいという気持だけが、恥ずかしながら、私に随筆家ならぬエッセイストを僭称させているのである。――

(平野)

「陳舜臣文藝館」5月開設を目指して。「神戸新聞」より。



【海】の書棚もお役に立ちます。

『ほんまに』第15号、くとうてんの在庫が一桁になりました。誠にすみません。新規お取り扱いの申し込み並びに追加注文にお応えできません。販売ご協力、ありがとうございます。
 
 元町商店街の朝市で菜の花を買った。ゴローちゃんに「おひたしですか?」と言われて。
菜の花や風流は無し団子友