2014年7月31日木曜日

味・そぞろある記


 仲郷三郎編 『味・そぞろある記――兵庫県味覚道中――』 のじぎく文庫 1960年(昭和354月刊  表紙 川西英

 編者・仲郷は増田製粉所専務。同社は1906年創業、長田に本社。神戸洋菓子には欠かせない会社。

 

 
目次

舌代  阪本勝(県知事)
ふるさとの味  嘉治隆一(政治評論家)
山のさち・野のさち  富田砕花
海のさち  井上喜平次(須磨水族館館長)
書ききれぬ味のガイド  竹中郁
華食の典――神戸の味――  今井正剛(県広報課長) 真野さよ(作家)
……
 お酒、各地の味、観光連盟推奨名産品も。 

 兵庫県ゆかりの文化人による食エッセイ。老年・壮年という年代の方たち。敗戦から15年、混乱を乗り越え、食べ物についてあれやこれやと言える時代になったという証拠でしょう。

 竹中郁、吉田健一に「舌鼓ところどころ」(文藝春秋連載)取材の案内役を頼まれる。

……相手は名にし負う酒豪、わたくしは一滴でさえ桜色になるという大下戸。こりゃまあ、どうしようぞいの、と浄るりの文句のような尻ごみをおぼえた。酒のみのたべものと、下戸のたべものとは、おのずから好みのちがうものだからである。しかし、といって、急に酒のみの好みの店をさがしあるくわけにもいかない。雑誌にのる趣旨から考えると、あるがままに委するのが一ばんよい。そう考えて、吉田氏のくるのを待った。
 これがむかしなら、元の宰相の御曹子ということで町人のわたくしなどは、ヘヘッと這いつくばって、その土地の格式高い旅宿か料亭へ案内しなくてはならなかったろうが、いきなり酒のみに逆らうような形のフロインドリーフへつれていった。……

 最初にドイツパン。それから洋菓子のユーハイム、レストラン・ハイウェイ、別館牡丹園、あなご・青辰、凬月堂でアイスクリーム、ロシア料理・ハナワ、とんかつ武蔵、イタリア料理・ドナロイヤ。2日でよう食べた。

(平野)「ほんまにWEB」くろやぎさんの手紙着信。夏は体力勝負!?
http://www.honmani.net/

2014年7月30日水曜日

えほん・コウベ


 広瀬安美 『えほん・コウベ』 のじぎく文庫 1972年(昭和476月刊

 神戸新聞連載。

目次

女の子と私のなまえ

東灘・灘  求女塚 初代進徳丸 白鶴美術館 天狗岩 旧関西学院チャペル 灘停留所 ……

生田・葺合  若菜の里 神戸市立南蛮美術館 布引の滝 バー・アカデミー 一の鳥居 瓦斯灯 旧移住センター 遊覧船 神戸海洋気象台 ……

兵庫・長田  炭酸水飲場 有馬筆 雪御所跡 追儺鬼面 神戸市電資料室 ……

須磨・垂水  義経号 須磨水族館 須磨寺 遊女塚 移情閣 ……

「あとがき」にかえて

 



 絵に添えられる女の子のモデルは夫人と紹介したが、著者本人は「モデルはいない」と書いている。

……“こども歳時記として、見ていただければさいわいである。季節ごとのこどもの遊び、古いもの、新しいものをもうらし、できるだけ郷土に密着した楽しいものに仕上げたつもりだ。……

 
(平野)これは自分の本。
「ほんまにWEB」のしろやぎさんがミシマガジンに登場。

http://www.mishimaga.com/hon-hatsu/032.html

2014年7月29日火曜日

画集 神戸の異人館


 広瀬安美 『画集 神戸の異人館』 神戸新聞事業社 1974年(昭和4911月刊

 神戸新聞夕刊の広告ページに掲載した「エキゾチックコウベ・神戸の異人館」をもとに出版。版元は「神戸新聞総合出版センター」の前身。

……異人館をかいて一番困ったのは、応接間や食堂まで、つまり一階は見せるが二階はオフリミットだというのには参った。外人がいうだけでなく、異人館に住むと日本人までみなプライベートルームはお断りとくる。民家を長年描いてきたが、日本で一・二は少し大ゲサにしても、それ位の家でも訪ねてワケを話せば、すこしくらいな異様な風態にかかわらず、各部屋まで案内し主人なり婦人みづからが説明してくれる。まあ神戸にも国の重文のハッサム邸とハンター邸はたのめば、内部もそっくり見せてはくれるが、人が生活していない建物は、いくら体裁が整っていても、これほど味気なく、見て面白味のないものはない。私が犬山の明治村を訪れない理由もそれであるし、大阪府の豊中市服部の民家集落に一度も足を踏み入れないのも、そこには人間の暮らしがないからで、無住の異人館もしごとなら見もするし、描きもするが、自分から進んでやる仕事ではにと思っている。……

 






 写真はケース表、裏、本体、扉。
 残っていない建物がたくさん。貴重な画集。
(平野)
 
 本書も村田社長から。明石の広瀬宅を訪問したことがあるそうで、広瀬の絵に描かれる女の子のモデルは夫人である、と村田社長の証言。
「ほんまにWEB」の「奥のおじさんさすらい月報」更新しました。

2014年7月28日月曜日

〈兵庫〉の民家


 広瀬安美 『〈兵庫〉の民家』 装幀 畑本久幸 自費出版 1974年(昭和491月刊

 朝日新聞兵庫県版に連載(1970.373.12、全190回)した「兵庫の民家」。
 広瀬(19181978、山口県生まれ、明石在住)はマンガ家で、異人館他神戸・兵庫の町並みを描いていた。民俗学や建築は素人。連載以前から全国の民家をスケッチ・撮影して、雑誌に発表し、展覧会を開いていた。新聞連載の話がきて、京都・奈良ならともかく〈兵庫〉は弱いと思っていた。しかし、長年の取材で他地域との比較検討ができたし、独自の表現技法が確立(1軒の家を全体図から細部まで何枚も描いて最後に1枚に組み立てる)できていた。






目次

民家について
地理的に見た兵庫の民家
屋根材料  葦葺、カラ葺、小麦葺、稲葺、笹葺、本瓦葺、桟瓦葺 ……
屋根型  入母屋、寄棟、切妻、かぶと造、大和棟、切落し、庇……
●入口  平入 妻入
棟飾り
縁起物
……
兵庫県下の国指定重要文化財民家および県指定重文その他
日本の民家遍歴

 広瀬の民家観。

……まず、その建物で人間が生活していることだ。いくら建築学的にすぐれても、人が暮らしていない建物はすでに家ではない。次に民家とは庶民の住まいとその付属建物(納屋、作業場、倉など)を指し、社寺仏閣その付属建物は一切含まない。武家屋敷も同様だが、特に身分の低い徒士級以下の武士の家は民家並みに扱っている。私はさらに民家といわれるものは原則として明治以前の建築物であることとハッキリ定めている。年代をどこにおくかがハッキリしていないと、民家を語る上でいろいろと混乱や不都合がおきてくる。……

「地理的に見た兵庫の民家」より

 瀬戸内海沿岸の播磨平野などの山陽東部は近畿中央低地と共に日本の文化先進地域で、農業の集結化、雰細化の著しい地域でもあるが、瓦葺化は進行し、本瓦葺きも多くみられる。草葺屋根は入母屋と寄棟が多く、瓦庇(シコロ)をつけている。山口県から福井県の飯郡(若狭西部)までの山陰海岸を含む地域は瓦葺が多く釉薬を用いた赤瓦が多く見られる。また雪止め瓦や北西風に対しての防護方法が講じられている。播但山地から福知山盆地にかけては草葺は入母屋が多く、栗の角材をつかった棟飾が分布し、石州赤瓦の分布東南限に当り、西日本随一の養蚕地域で、切落し屋根の二、三階建が但馬山間部にみられるのは養蚕農家の一典型である。これに対し丹波高原全域、三田盆地、能勢山地を含む地域の草葺は破風が大きい入母屋で、栗角材の棟飾は、丹波高原の特色で「ツノヤ」も分布し、柱にベニガラをぬる家も多い。……

(平野)
 村田社長からの借り物。

2014年7月27日日曜日

すべての聖夜の鎖


 らもん 『全ての聖夜の鎖』 監修 小堀純 復刊ドットコム 2700円+税 A4判

 解説 「全ての聖夜の鎖」 諏訪哲史

「中島らも」以前。
 1979年自費出版、限定100部制作。2000年文藝春秋より復刻。
 没後10年記念、らも幻の処女作・掌篇小説3篇に詩とエッセイを収録する。

 

「薄明に野の祈り容れられず 斯くて夜はきしむ卵となりぬ」

 その夜、夜間飛行のパイロットは海岸線に不思議なものを見た。三つの蒼白い炎が結ぶ二等辺三角形である。それは暗い波頭と、さらに暗い陸地の結節点に、太古からの紋章のようにポツンと輝いている。

「誰かが夏を密葬しておるのだ」

 彼はそう考え、既視感にともなうあのほろ酸い悲しみに抱きしめられる。

……

 大爆笑モノではなく、クスリや酒の勢いでもない。
 若さと情熱。

 復刻版発行時の言葉。

 その頃おれは印刷屋の営業マンとして、先ゆき自分が文章でメシをということは考えもしなかった。
 野心がない。
 その分、ピュアな一冊だといえる。

 広告マンになる前のこと。

(平野)

2014年7月26日土曜日

僕に踏まれた町と僕が踏まれた町


 中島らも 『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町 増補版』 朝日文芸文庫 19946月刊  装丁 泉沢光雄

 初出、19873月~8812月「A+1」(朝日新聞の播但サービス紙――播州、但馬)。89PHP研究所から単行本、97年集英社文庫。

 らも、高校生グラフィティ。

第一章   丸坊主軍団、まいる
保久良山、O先生のこと、砂場のビーナス、放課後のかしまし娘 ……

第二章   タナトス号に乗って
三宮の賢人、崩れた壁、飲酒自殺の手引き ……

INTERMISSON 街のクロッキー
元町駅の怪しい男、新開地、神戸の中華料理 ……

第三章   フーテン浪人日記
三宮の変人たち、石部金吉くんの恋、ノルウェイの森 ……

第四章   モラトリアムの闇
入試地獄、浪々の身

巻末エッセイ 村上知彦

 多くの人は信用しないでしょうが、20年くらい前まで国際都市・神戸の男子中学生は丸坊主を強制されていた。わてらの時代(40数年前)は高校でぼちぼち自由化に。私立校でも髪型自由は数える程。「灘」でも丸坊主だったが、生徒総会が何度も開かれて頭髪・服装自由化になった。らもが勝ち取ったというより、「勉強のよくできる正義感の強い生徒たち」が率先して学校と交渉した。らもたちは丸坊主でもワルサをしていた。長髪になってもやることはあんまり変わらなかった。求めるものはいっぱいある。クスリ、酒、エッチ……
 同級生のほとんどが難関大学に入る「化け物みたいな学校」。
……そのすみっこのほうに、十人かそこいらの「落ちこぼれ」がいる、この連中はとうに受験をあきらめて、某部室にたれこめてはたばこを吸ったり酒を飲んだり、シンナーを吸ったりマルキシズムについて議論したり、セックスについて見栄の張り合いをしたりしていたのだ。(略)
 僕はそのたまり場にまぎれ込んで居心地のいい思いをしていたが、思想的なことではまったく話が合わなかった。彼らのいう「革命」が根源的なところでヒューマニズムと通底しているのが気にくわなかったのだ。
 そのころの僕は、自分が腐った膿のかたまりであることを自覚していた。もちろん世界は自分よりもっと腐っていて、いっそもろともに爆発し、消滅してしまうことを望んでいた。……
 そこに「ものに火をつける」ことが異常に好きなIがいた。化学部で薬品を調合してはイタズラして、被害者が何人も出ていた。ある日、校庭で爆発事件。石垣が崩れ、鉄パイプが飛び散り。現場を逃げ遅れたKが犯人にされたが、主犯はI
 思想がないのに事を起こすやつほど怖いものはない、と僕が確信したのはそれ以降だ。

(平野)

2014年7月25日金曜日

神戸 最後の名画館


 浅田修一 『神戸 最後の名画館』 幻堂出版 20013月刊

 1985年『神戸 わたしの映画館』(冬鵲房)の増補改訂版。
 デザイン 神戸鶴亀本舗 石井章  イラスト 浅田修一

 浅田(19382001年)は高校教師。お元気な頃はよく本屋回りもされていた。服装はいつも黒。『教師が街に出てゆく時』(筑摩)他著書多数。
 
 

目次

第一話 松竹新劇 山田洋次にちょっと注文
第二話 新公園劇場 右眼と映画と『ワーテルロー』
第三話 六甲東映 団鬼六と坂道の街
第四話 繁栄座 雨の日の映画館
第五話 公園劇場 「ピンク映画」の闇の中で
朝日会館、富士映劇、新劇快感、ビッグ映劇、福原国際、吹田映劇、アサヒシネマ、新劇会館シネマ1 ……

85年版「あとがき」
……ある映画を見るためにある映画館に入るという、ごくありふれた行為の中に、私たちはどれほど多くの暮らしのあれこれを引きずり込んでいることだろう。そのあれこれと、そのあれこれの思い――。私の書いて来たことは、つまりそういうことだったかもしれない。
 その意味で、あの映画館の闇というものは、単に技術的な必要性というにとどまらず、なかなか味のある空間に違いない。私たちが持ち込んだもろもろのものは、あの闇の中で、ひととき癒され、翻弄され、やがてひとつの形をとる。……

 この時、既に身体中に痛みがあった。頚椎の手術で入退院を繰り返す。

 本書は映画評論だけではなく、映画館と映画と浅田の日々のもろもろのこと。GFとの映画話、右眼をケガして左だけで映画に付き合えるかの心配、鑑賞中のできごと、映画館を出てからの喫茶店や飲み屋のこと、……

痴漢に遭う。ピンク映画の最中に左隣の男の手が自分の左内股に来て右脚に移る。
「お兄さん、足ないのん……。」男はぼそっと言い、しばらく手を握っていて、やがてどこかへ行ってしまった。……

 映画話の合間に本屋のことも。
 六甲道、阪急六甲にあった南天荘書店と六甲界隈の思い出、新開地では神文館、元町では【海】の名がチョロっと。

 200010月、「新劇会館」で映写室をスケッチさせてもらう。支配人の配慮で2時間映写室、無我夢中。後から来るであろう身体の痛みを予想する。描き終えて握り飯を食べる。
 喰い終わって、ウーロン茶で二回目の鎮痛剤を飲む。ボルタレンという鎮痛剤は、一日二度が限度である。今日は半日でエネルギーが尽きた。閉店。(映画の時間表を見ると、スペインの監督作品)
 少なくともこの人は、元気はくれるな、いくか。小便に行って、ハチミツ・レモンを買って、見ることに決める。……

 写真はカバーと本体。右上のイラストが「新劇会館映写室」。

(平野)村田社長の本棚より拝借。

2014年7月24日木曜日

大阪圖書出版業組合記念史


 『大阪圖書出版業組合記念史』 大阪圖書出版組合殘務事務所編纂兼発行 昭和十八年四月発行 非売品

 村田社長所有のコピーを借りている。

 1940年(昭和158月、国策により出版業者の団体はすべて解散。大阪図書出版業組合は以前に出した『二〇年史』に続く5年分の記録と解散後の残務整理記録を出版した。

 これらは東京の組合資料も合わせて2008年金沢文圃閣が復刻している、全3巻。

大阪図書出版業組合は順調な発達の道途にあり。昭和十六年の春には創立二十五周年の祝賀をすべく「大阪名家著述目録」の記念出版や、祝賀招待会や、記念市会と、皆それぞれの委員を設けて準備を進めつつあったところ、十五年八月に入り内務省当局よりの内示により、出版業者の団体は凡て解消して一丸と成らなければならぬ事となり、業界は大衝動を受けた。我組合も所謂発展的解消をなした。誠に一抹の寂しさを感ぜずには居られなかったが、幸に各会員は文協よりの用紙の一元的配給や、日配の設立による取引の窮屈さや、新制度による営業上のいろいろの変革にも動ぜず、意気衝天の慨を以て、良書の出版に専念せられたのは実に心強き極みであった。……

昭和十八年一月  博多久吉識

 原文は旧字・旧かな。博多久吉(博多成象堂、講談小説など出版)は組合組長。
 大戦争に向かう国家の重圧がひしひしと。

 解散当時の役員写真がある。村田社長に解説してもらう。創元社、駸々堂、増進堂、大阪宝文館の経営者たち。村田社長の義父にあたる人、【海】元重役・清水部長の父上の姿もある。村田社長が業界に入った頃はご健在だったのでしょう。
 


(平野)

2014年7月23日水曜日

らも「微笑家族」


 中島らも 『微笑家族』 ビレッジプレス 19918月刊

本文イラスト 中島らも・わかぎえふ
装幀 下東英夫
編集 小堀純
編集協力 日広エージェンシー 朝日新聞大阪本社広告局 JICC出版局 ぴあ
協力 カネテツデリカフーズ

目次

微笑家族
啓蒙かまぼこ新聞・社説
シーフード・ラプソディ~好物芳名録
あとがき

 
 カネテツ広告第2弾。

「あとがき」より。

 僕は広告を信じない。
 信じない人間に広告が作れるわけはない。
 したがって、僕は広告でない広告を作るしかなかった、ともいえる。幸か不幸か、そこから一歩も抜け出すことができなかった。

「啓蒙かまぼこ新聞・社説」より。

 劇団の公演でチクワを使うシーン。次の公演(1週間後)も衣装のポケットに入ったまま。リハーサルでそのシーン、匂う。誰かがイタズラで酢をかけてポケットに入れてあると思った。しかし、異様な匂い、表面ヌルヌル、指がチクワにズブズブと入る。
 ようやく1週間前から入れっぱなしであったと気づく。

 しかし、ここまで腐ったチクワには日常なかなかお目にかかれるものではない。もちろんそのチクワはカネテツデリカフーズのもので、保存料無添加の高級品だった。その時点では、近海ものの鮮魚を使った高級品のみ、保存料無添加だったのである。
 さて、この十月一日(’90年)から、カネテツデリカフーズは、全商品を「合成保存料無添加」に完全に切り換える。
 チクワ事件のように、腐らせて人を驚かせるためではない。新鮮なうちに、安心しておいしく食べてもらうためだ。

 カネテツデリカフーズの全製品は、これから確実に腐る(・・)。すべてのまっとうな食べものがそうであるように、放っておくと腐る(・・)のだ。

 ちゃんといいところをアピールしている。

(平野)
 本書を自分は持っているものとずっと思っていたが持っていなかった。村田社長の本棚から借りてきた

2014年7月22日火曜日

らも「啓蒙かまぼこ新聞」


 中島らも 『啓蒙かまぼこ新聞』 ビレッジプレス 198712月初版(私のは8822刷)
装幀 日下潤一  編集 村上知彦 チャンネルゼロ

目次
微笑家族  
啓蒙かまぼこ新聞  
中島らも4コマ傑作選
中島らもとニュー・ウエストの抬頭 村上春樹
あとがき

 らも、広告会社勤め時代の仕事。「かねてつ食品(株)」のち「カネテツデリカフーズ」の広告。『宝島』『プレイガイドジャーナル』に載っていた。
「啓蒙かまぼこ新聞」の1コーナー苦笑マンガ ご・ぼ・て・ん微笑家族となるのだが、最初のうちは徴笑~になっていた。ワザと?

 村上春樹の解説。らもの文章を好む、と。
「(広告主の)実在性を消してまわって物事を何の意味もない純粋な冗談にすり変えていく」努力。
「関西弁的なノリの良さ」。吉本に代表されるディープ・ウェストではなく、ニュー・ウェスト型というべき「ノリがライトで、ひねりがあって、どちらかといえば個人性が勝っている」=阪神間型。

 遊び心だらけの広告だが、伝えるべきことは伝えている。「かねてつ」から「カネテツデリカフーズ」に社名変更した時。

 別にいばってるわけではないが「還暦」なのだ。かねてつ。
 創業が大正十五年(昭和元年)だから、昭和の年数がそのままかねてつの年齢になるわけだ。え?おじん?そういう失礼な言い方せずに「しにせ」と呼んでほしい。
 本社工場は神戸の中央市場のまん前にある。そこで、午前四時から社長自らが魚を買いつける。社長の目が光っているので、魚の目も光っている。そんなピチピチした新鮮さを追求して六十年。これからも練製品に限らず、高タンパク・低脂肪のシーフードデリカを食卓にお届けする。
 そんな「気合い」を込めて、新社名。「カネテツデリカフーズ」社名は変わってもおいしさは変わらない。何とぞお引き立てのほど。

 726日はご命日。
「中島らもメモリアルWEEK2014http://ramo-nakajima.com/memorial/

(平野)海の日や海の本屋を懐かしむ よーまる

2014年7月21日月曜日

広瀬勧学「我が半生」


 広瀬勧学 『我が半生』 自費出版 19964月刊
 

 広瀬は1917年(大正6)福井県生まれ。小学3年生から京都等持院で禅僧修行。38年応召、中国大陸を転戦、46年帰還。妻の実家、神戸市兵庫区で本屋「神文館」を開業。本書は傘寿を記念した自伝。
 修行仲間・水上勉が文章を添える。広瀬が水上の処女作「フライパンの歌」発表時に連絡した。水上は「僧侶になりそこねて本を売って喰う仲間であるという認識で新しくむすばれた」と書いている。阪神・淡路大震災でもチャリティーに駆けつけ、後年広瀬の葬儀でも委員長を勤めた。

 神文館は新開地の街づくりの中心的存在だったが、201212月閉店廃業した。

 自伝に戻る。広瀬は戦争中負傷して帰郷を認められ、その時に遠縁の娘と結婚している。家業が神戸の新聞・書籍取次だった。戦後帰国して、広瀬は等持院に戻るつもりだったが、住職の賛成を得られず、妻の実家に身を寄せた。

 家内の実家は湊川神社、いわゆる楠公さんの西門前にあり、奇跡的に戦災にも遭わずに残っていた。そこで新聞・雑誌の取次業を営み、今も家内の兄がその商売を継いでいる。自然にその仕事を手伝っているうちに、ある人が、新開地で仮説店舗が空いているからそこで商売をしてみないかと勧めてくれた。(略)
 早速、私たち夫婦はそこで「趣味の家」と銘打った店舗で、商売を始めた。

 商売は順調で、後に本店となる土地も取得できた。街づくりにも積極的に関わった。

 戦後復興と繁栄、その後の衰退を見てきた。バブルもあった。それに大震災。それでも「故郷のために、今後の人生のために」「できることならどんなことでもする」と決意を書いておられる。

(平野)
 村田社長から借りている。広瀬勧学さんはアイデアマンで業界のリーダーだった。

2014年7月20日日曜日

二十世紀明石市民文化史・明石文学史年表


 木村二朗 『二十世紀 明石市民文化史・明石文学史年表』 播磨学研究所 200310月刊 (頒価500円の表示あり)

 木村は明石の老舗書店・木村書店店主。明石ゆかりの文化史・文学史を発生順に記録。B5判、98ページ。




市民文化史年表 文学、芸術、芸能、刊行物を中心に。

1870(明3) 明石藩最後の能楽が行われる

1872(明511.9 太陽暦が採用され、123日が明治611日となる

……

1886(明197.13 東経135度の子午線が日本の標準時に決定される

1888(明2111.1 神戸から明石まで山陽鉄道(現JR)が開通する(なお、姫路までは12.20に開通する)

……

19338月では、富田砕花が中等学校野球大会での明石中等学校と中京商業の25回に及ぶ試合を賞賛した詩について。その記念碑が明石中学校庭に建てられた。

 音楽会・美術展など、市民団体主催も記録。

文学史年表

……

1894(明27) 正岡子規(18671902、本名・常規、俳句誌「ホトトギス」主宰、歌人)が内藤鳴雪家(18471926、本名・素行、廃人、子規の弟子)での句会で「詠初 須磨と明石を 窓の前」を詠んでいる

……

1955(昭3010. 松本清張(190992、小説家)が明石原人発掘の直良信夫(190285、古生物学者、192532東野町に在住)をモデルにした小説「石の骨」を「別冊文藝春秋」第48号に発表する(1972.7.20文藝春秋刊「松本清張全集」第35巻に収録)

……

 2000年、地域の文化賞、高齢者大学の活動、文学者の講演、大岡昇平の旧宅解体、足穂全集など。

 稲垣足穂、大岡昇平、椎名麟三の活動が詳しく記録されている。
 1964年足穂の「明石」を木村書店が復刊している。また、著者の父君・栄次(歌人、文学研究者でもあった)の諸活動も。

 地域文化を支えてきた本屋の地道な作業と成果。

(平野)
 三宮ブックス・村田社長から拝借中。
 
 

2014年7月19日土曜日

女お仕打ち一代記


 巽慶子 『女お仕打ち一代記 神戸のお家はん巽テル』 沖積舎 200611月刊 
装釘 伊丹啓子

 著者は1924年神戸市花隈生まれ、尼崎で「コクリコ連句及俳句会」主宰。本書は祖母の評伝。

 巽テル18601946)は稲野村(現伊丹市)生まれ、「神戸のお家はん」とよばれた興行主。明治の初めに神戸の叔父の紹介で外国人宅の女中になるが退職。京都南座のお茶子修業で一生の仕事と決意。28歳で大阪の劇場にスカウトされ、30歳で芝居茶屋を自ら経営。神戸の劇場を任されて花隈住まい。興行成績がよく、その劇場を譲られて座主=お仕打ちとなった。「大黒座」。

 テルは神戸に来てから朝食は大好きな神戸西村屋のパンを配達してもらっていました。火鉢の炭火でこんがりと焼いて、英国製のバター。紅茶はリプトン。そしてジョニーウォーカーをタラタラとたらし、お砂糖はブドウ糖を使用します。毎日、卵二個の黄身に対して、白身は一つ分の目玉焼き。そして必ずリンゴは頂いておりました。(略)
 朝食がすみますと、着物を着替えて、大阪の北浜へ向かいます。阪急電車の株主の優待券をもっておりましたので、それを利用して、北浜取引所に朝の取引を見に行くのです。
 生駒の聖天さんへは、必ずそこから月参りにきっちりとお参りしておりました。……

 パン食は神戸女中時代に覚えたもの、北浜(株取引)は大阪時代から、生駒の聖天さんは願掛けした神さん――仕事で生きる、結婚はしない――。芸妓絲子を養女にして女優の道を歩ませた。弟の三男を生後直ぐに養子にした。彼が著者の父。
 1908年(明治40)テルの劇場で出演中の俳優・()(どう)定憲(ていけん)川上音二郎先輩オッペケペ風刺始めた)が肺炎のため亡くなった。テルが葬式を出した。

 その当時の役者さんたちが大阪から京都からと参列し、みんな人力俥に乗って、名札を前につけて、神戸駅から大黒座までずらりと寸分の余地なく並んだそうです。北のほうは楠公神社の前まで並んで、神戸の名物となるほど賑やかなお葬式であったということが語られております。人力俥に乗った巽絲子も、とても美しく綺麗だったと、花隈の人たちはそれを自慢にして、その話は神戸が戦火に焼けるときまで語り続けられておりました。

 大正に入ると、新開地にもモダン建築が建ち、「芝居小屋」は「劇場」と言い換えられる。「大黒座」も「日本劇場」に。

 関西では初代の中村鴈治郎さんの全盛期でした。芸熱心で、素通りの人の足音ですら注文が来る。「そういう歩き方は女中の歩き方ではない」「丁稚の歩き方はこう」とか、歩き方一つでも注文があって、みなそれを一生懸命に勉強していったんです。
 二代目の実川延若さんは、まだ延二郎さんの時代で、鴈治郎さんよりお年が十歳から若かったもんですから、まだ若手のほうでした。……

 中村梅玉、雀右衛門、魁車、片岡仁左衛門と当時の人気役者の名が続々。名優だけではなく、花柳界、文化人、経済人との広い交流と花隈の町の様子が語られる。興行を仕切る顔役との交渉も。
 人気役者の写真多数。

(平野)
「くとうてん」にあったのを借りています。本書、まだまだネタが出てきそうです。