2015年1月30日金曜日

神戸の味覚地図


 『神戸の味覚地図 1973年版』 創元社編・発行 1973年(昭和483月刊 装丁・カット 加藤義明

 当時同社は『関西味覚地図』を毎年改訂出版し、〈京・阪・神〉版もそれぞれ出版するようになった。
 神戸版の執筆者は、赤尾兜子、黒部享、竹田洋太郎、竹中郁、水谷碧子。85店舗を掲載。
 竹中紹介分から「風月堂」(正しくは凬月堂)を。

 風月堂は明治中期に先代が東京の風月堂で修業して帰り、以来七十年余りフランス系の菓子を造ってきた。源泉はパリのポテレ・シャポオという店である。ポテレ・シャポオのおもかげのある菓子に、ここが力を入れているゴーフルがあり、パピヨットがある。
 それはさて、ここのアイスクリームは日本で五指に入るといってよいできばえで、精選した牛乳、玉子、天然バニラという古格を守っての一品。うそつき食品で一ぱいの現代日本では正直ものの一つである。ポール・ロブスンの柔らかい声は「黒ビロード」という綽名があるが、このアイスクリームは「お姫様ビロード」である。(略)
 アイスクリームは年中あるから、夏だけに限らず、好みに合った季節に食べるとよい。私は、冬の最中の昼すぎにたべるのが好きで、屋外の日ざしのまさに弱まろうとするような光をみながら、アイスクリームをほうばる。そのころだと、指でつまんだまま口へもっていくのに、膝や胸もとを汚さなくてすむ。

 アイスクリームは150円と200円、コーヒーは120円だった。
「ポール・ロブスン」(18981976)はアメリカのオペラ歌手。俳優、作家、公民権運動家でもあった。

 竹中は「神戸のお菓子と嗜好品」も執筆。

(平野)
「ほんまにWEB」、〈奥のおじさん〉更新していました。いつの間に? 
〈しろやぎ・くろやぎ〉更新。くろやぎ担当異動、仙台遠征。http://www.honmani.net/

2015年1月29日木曜日

神戸味どころ


 村上和子 『神戸味どころ』 保育社カラーブックス 1982年(昭和574月刊


 著者は当時サンテレビディレクター。「洋菓子天国KOBE展」総合プロデューサーを長年勤めた。現在は特定非営利活動法人「グランドアンカー」理事長、ミナトを生かした「みなとまちづくり」をめざして活動。

 表紙は異人館「ラインの館」にあったドイツ喫茶。

 
 
 とれたての瀬戸内の魚、世界に誇る神戸ビーフ、ふっくら良質の三田米、酒は灘の生一本。各国の料理をはじめ、新鮮でバラエティーに富んだ味覚が手軽に味わえるのも、ミナト神戸の大きな魅力です。街には、まるで洗練された女性のバッグの中のように、個性をもったいろいろな味どころが、コンパクトにつめあわされています。それらのひとつひとつに、味覚を作り、味わい育てた、料理人や神戸っ子たちの「食べること」に対する、あらゆる熱き思いもこめられています。

 世界の料理から郷土料理、喫茶、屋台まで150店あまりを紹介。現存しているのは何店か不明。
 神戸らしいと私が思う店(?)をひとつ。

「バタヤン船(うどん)」
 
♬波の瀬の瀬に ゆられてゆれてエ……
 まっ赤なのぼりを立てて、今日も行く行く、バタヤン船。

 港で働く人のために船で商い。うどん、そば、おでん。商売の売り声は店主の歌。田端義夫(バタヤン)の歌を歌いながら港内を流す。釣り人にも人気があったそう。

(平野)

2015年1月27日火曜日

親なき家の片づけ日記


  島利栄子[文] 柳原一德[写真] 
『親なき家の片づけ日記 信州坂北にて』 
みずのわ出版 4200円+税

 著者は1944年長野県東筑摩郡坂北村生まれ、千葉県在住の女性史研究家。「女性の日記から学ぶ会」主宰。「現存する日記を収集・保存、活用する途を探りながら、後生に残すべき女性文化のありようを考える」をテーマにする。
 郷里の父母が亡くなって10年あまり。
両親が暮らしていた家で親の遺品と向かい合いながら、どうしようどうしようと片づけに悶々としつつ、自分を確認した歳月を綴る。

 坂北へ帰るとなぜか方言がしきりに思い出される。言葉というのはその土地の空気や人との出会いで、身体が思い出すらしい。それはまた父や母の思い出に繋がるものである。
「ごたごたぞ」。これは父の口癖だった。「おじょこってもんせ」。これは母が自戒を込めてか、よく呟いていた。故郷へ帰ると思い出せるのに、故郷を離れるとなぜか思い出せないのだ。ああ、故郷のことば、親のことば。布団に入るとふいに心に浮かぶ。あまりの懐かしさに身をよじって泣く。

「ごた」は、話にならないほど道にはずれている、と島が注釈してくれている。
「おじょこ」は生意気ということだろうか?
 千葉から坂北まで月1回通う。自動車でも鉄道でも片道67時間かかるだろう。家と遺品の整理だけではない。墓、田畑、草取り、収穫。故郷の自然とご近所の人たちに助けられる。家族の協力も必要。思い出にひたりながら少しずつ片づける。親戚が集まり、勉強会を開き、畑を開放する。草取りに来てくれる友人もいる。作物で料理をしていると、母の思いがわかってくる。食器や衣服にも思い出がある。

 父母が亡くなり十年たとうとするいま、すべておだやかになった。親のことを考えながら、私自身が少しずつ老化していくことを実感せざるをえない。認めたくないけれど、ここ数年老化が著しい。……

 10年という年月は生き残っている者にも押し寄せる。夫の病いの他、家族にもいろいろなことが起きる。頻繁に帰ることもできなくなるだろう。短いようで長く、またその逆でもある。

 この十年。まずは家を片づけ、次は有効利用しようと、ひたすらに走って来た。そうすることで、親を亡くした悲しみを忘れさせてもらえたとしたら、それはありがたいことではないか。感謝して、次のステップにたつち向かっていこう。きっと何とかなるだろう。大丈夫、大丈夫。
 
 写真の柳原は同社社主で写真家で農民。3500カットから92カットを収録した。

……人工光源に頼らずなるべく自然光で撮りたいときた日には、どうしてもお天気任せになってしまい、時間のロスばかり多くなる。無駄の多い仕事。無駄ついでに、素人玄人の区別なく上手く撮れてしまうほどによく出来た今日日のデジカメを拒絶し、画質はよいが、大きく重く利便性に欠けるペンタックス67一台で、今はなきコダック・エクタクロームをメインフィルムに据えて撮影を進めた。チャンスを逃せばそれまで、縁のなかったものとしてあきらめる。撮り進めていくなかで、島さんのご両親が使い込んだ遺品もさることながら、その背景としてあるこの土地の風光と生活文化、循環する人の営みといったものへと関心が広がっていった。……

 愛すべき頑固者である。昨年末、梓会出版文化賞第30回記念特別賞受賞。

(平野)

2015年1月24日土曜日

笑う子規


 正岡子規・著 天野祐吉・編 南伸坊・絵

『笑う子規』 ちくま文庫 20151月刊 700円+税

 単行本は119月、筑摩書房より。子規の110回忌に合わせて出版。天野は02年から松山の子規記念博物館館長を勤めた。

〈はじめに〉より。

 俳句はおかしみの文芸です。

  柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺

 子規さんのこの句を成り立たせているのも、おかしみの感情です。「柿を食べる」ことと「鐘が鳴る」ことの間には、なんの必然的な関係もないし、気分の上の関連もない。つまり、二つのことの間には、はっきりした裂け目が、ズレがあります。
(略、漱石の句に比べて子規はまじめな句が多いと思われている)重い病いと闘いながら三十四歳という若さで亡くなった彼のイメージが、そう思わせているのかも知れません。
 でも、それは誤解です。凄まじい痛みにさいなまれながらも、彼の想像力が生んだ世界には、生き生きした生気があった。そこから生まれる明るさがあった、とぼくは思っています。そう、ぼくの中にいる子規さんは、「明るい子規さん」「笑う子規さん」なんですね。

子規自身、「病牀六尺」に書いている。

……苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、わずかに一条の活路を死路のうちに求めて少しの安楽を貪る果敢(はか)なさ、それでも生きて居ればいいたいことはいいたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、それさえ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさわる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるような事が無いでもない。……

 明るい、おかしみのある、笑える句。でも……

  蒲団から首出せば年の明けて居る

 天野のコメント。

ひょいと蒲団から顔を出したら
年が明けていたなんて、
落語の八っつあんみたいに粋だろ?
ほんとは蒲団から出られない病人なんだけど、
ここは正月らしく、粋に気取らせてくれよ。

 表紙の絵は、子規おなじみのソッポを向いている肖像。
 写真は、松山市商工課制作の栞。



(平野)

2015年1月23日金曜日

さんちか古書大即売会


ヨソサマのイベント

 雨の中ウロウロして、〈さんちか〉に降りたら古本即売会。すっかり忘れていた。

 さんちか古書大即売会 122日(木)~27日(火) さんちかホール


 ポスターは〈もふもふ堂〉の神戸市電シリーズ、湊川公園の神戸タワー。
 

 今後の予定も。

  神戸古書即売会 36日(金)~8日(日) 兵庫古書会館
 
 

  第十回 ひょうご大古本市 410日(金)~12日(日) サンボーホール


主催 兵庫県古書籍商業協同組合 078-341-1569
 
(平野)

2015年1月22日木曜日

神戸ものがたり


 陳舜臣さん逝去。


  陳舜臣 『神戸ものがたり』 平凡社ライブラリー 19981月刊 カバーの絵・風間完


 19816月平凡社版に書き下ろし「一月十七日のこと」を加えた。

 一九九五年一月十七日午前五時四十六分。この時刻を私たち神戸に住む人は、忘れることができない。
 地底からゴーッという音がきこえたようである。ぐるぐるとひきずりまわされる。これはいったいなんなんだ。大地がうごいているのだから、地震にちがいないが、こんなに揺れるものとは思わなかった。私は脳内出血で五ヵ月入院して、退院して四日目の朝であった。目がさめると同時に、あるいは自分のからだの変調ではないかと思った。だが、妻がわたしのからだのうえにかぶさってきた。病後の私をかばう動作だとすぐにわかった。かばうと同時に、「死なばもろとも」ということはかんじられた。僅かのあいだだが、そうかんじたことで覚悟ができたようである。とはいえまだそんな未曾有の地震とは思わなかった。

 退院後、沖縄でリハビリする予定だった。友人たちのすすめで8時間かけて京都に避難。先日紹介した「神戸よ」を書いた。

 原稿用紙にむかって、不自由な手をうごかしながら、わたしはなんども涙を流した。こんな経験ははじめてであった。はじめは病後で気が弱っているせいかとも思ったが、連載小説開始の直前で、気はむしろ高揚している。やはり神戸をおもって、胸がしめつけられたのだ。

 京都から沖縄に移りリハビリ。

……神戸が最もひどいときに、私はいなかったことになる。これでは、地震についてものを書く資格はないような気がする。

 書かねばならないという使命感があった。

(平野)

2015年1月19日月曜日

阪神・淡路大震災 20年の歩み


 兵庫県書店商業組合編集・発行 『阪神・淡路大震災 20年の歩み 1995~2015』 20151月刊 A4判 48ページ 非売品


目次
写真で見る阪神・淡路大震災
座談会 もっと、書店と地域のつながりを深めよう
被災と支援の記録
取次会社の奮闘
復旧から復興へ、兵庫から発信
22人のメッセージ
年表(1995年~2014年)
阪神・淡路大震災20年ブックフェア出品の本
兵庫県書店商業組合 全会員名簿
あとがき
 
 この20年の間、東日本大震災、御嶽山の噴火、広島の土砂災害など多くの自然災害があり、事件は毎日のように起きています。新聞やテレビで、次から次に起こる災害や事件の報道が、これでもかというくらい発信されます。そして、目と耳から新しい情報がインプットされるたびに古い情報が削除されるがごとく、人々の記憶は薄れていくのです。しかし、当事者にとっては忘れられない出来事であり、忘れてはならない記憶です。1995年に生れた子どもは、本年成人式を迎えます。当時若手であった我々も、ベテランと呼ばれ、定年を迎える日が刻々と近づいてきています。また、鬼籍に入られた諸先輩方も大勢おられます。20年とはそれほど長い年月です。この時を逃せば20年前の出来事をまとめることは、二度とできないかもしれません。……(編集長 三和書房・中島良太)

〈三宮ブックス〉はオンボロなのに残った。まわりのビルや駅は壊れていた。社長は組合幹部、支援のお願いや義援金分配に奔走した。
 20年前のことを知る業界人は少数。私も現役を離れたけれど、投稿させてもらった。
(平野)

2015年1月18日日曜日

鎮魂と再生のために


 伊勢田史郎編 『鎮魂と再生のために 阪神・淡路大震災をふりかえって 長尾和と25人の詩人たち』 風来舎 19961月刊




 9596年、震災メモリアルの詩集を〈アート・エイド・神戸〉(【海】に事務局)の文学部門が刊行した。第1集では155名、第2集では129名の詩人が作品を発表した。長尾が表紙を描いた。
 本書は長尾の震災画と2冊の詩集から選んだ25篇の詩で構成。

 被災した長尾に友人たちから励まし。
「今こそじっくり絵を描け」
「あなたは神戸を描け」
「絵かきの目ン玉で神戸を見ろ」

 予定していたことはすべて頓挫しているが、毎日忙しい。被災した神戸の傷口に触れるようで気がすすまないまま街に出た。
 倒壊した家屋や電柱、焼け朽ちた街、そこに立つ樹木などが強大な破壊のエネルギーを証言していた。路上のわずかな亀裂にも、日頃の絵や彫刻にはない強い緊張感があった。
 市民に親しまれてきた酒蔵の街も姿を変えていた。救急車のサイレンが遠くから鳴り続き、空にはヘリの音、物かげから姿を変えた酒蔵をスケッチする。大好きな神戸だが正視できない。でも自然に足がのび、港や火災の街の地ベタに腰をおろした。
 
 各務豊和 たかとう匡子 君本昌久 青木はるみ 鈴木獏 多田智満子 和田英子 杉山平一 ……
 
安水稔和 「神戸 五十年目の戦争」

目のなかを燃えつづける炎。
とどめようもなく広がる炎。
炎炎炎炎炎炎炎。
また炎さらに炎。
(略)
これが神戸なのか。
これが長田のまちなのかこれが。
これはいつか見たまちではないか。
一度見て見捨てたまちではないか。


(あれからわたしたちは
なにをしてきたのか。
信じたものはなにか。
なにをわたしたちはつくりだそうとしてきたのか。)

一九九五年一月十七日。
午前五時四十六分。
私たちのまちを襲った
五十年目の戦争。

壊滅したまち。
眼前のこのまちに 
どんなまちの姿をかさねあわせればいいのか。 
これから。

神戸のまち 長田のまち
生きて愛するわたしたちのまち。
生きて愛するわたしたち
ここを離れず。
(略)

(平野)

2015年1月17日土曜日

神戸新聞の100日



 神戸新聞社 『神戸新聞の100日 阪神大震災、地域ジャーナリズムの戦い』 プレジデント社 199511月第1(手持ちは同年125刷) 
 角川文庫に入っている。


 95116日午後5時、JR三ノ宮駅南側の神戸新聞会館2階編集局フロア、翌日の朝刊作業の会議が始まった。事件・事故のない平穏な日だった。午後7時、共同通信社から「午後632分頃神戸で震度1の地震発生」という通信があったが、誰も大地震の予兆とは考えられなかった。新しいニュースが飛び込むもことはなく、深夜、会社は宿直者のみとなる。
 17日午前546分、大地震発生。
 車で出勤途中の記者は追突されたような衝撃とともに目の前が光ったように感じた。信号待ちのトラックが跳ね飛んでいる。車を降りて街を見ると、ビルが傾き、住宅が崩れている。カメラのシャッターを切った。電柱は倒れ電線が垂れ下がっている。

「うそやろ」と大真面目に思った。今見たのは一瞬でしかない。しかし、うそでない証拠に、もう一度光ったフラッシュに、さっきの倒壊民家がいっそうはっきりと輪郭を現した。間違いなく街が破壊されている。

 その頃、会社内は、天井が落ち、柱にひびが入り、窓ガラスは砕け散り、ロッカーは倒れ、電話・テレビが散乱……。防災の警報器がすべて鳴り、ガスが漏れ、非常消火の水や化学剤が放出されていた。停電。ビルはかろうじて立っていたが、外壁は亀裂だらけ。周辺の歩道は変形していた。
 かろうじてつながっていた数本の電話で、宿直者は県内の総局・支局に連絡し、社員全員に呼び出しをかけた。
 多くの社員が「家族の不安な視線を振り切って家を飛び出した」。全壊の家から家族を救出して駆けつけた人。自宅を失った人。家族を亡くした人。家族の安否を確認できないまま勤務を続けた人もいる。

「使命感、記者魂、愛社精神……それはあっただろう。だが、本当に我々を奮い立たせたものは、もっと本能に近いものだったのではないかという気がする。人間が死ぬかもしれない危機的状況に陥ったとき、生きるためにもがくのに似ている。新聞が発行できないということは、新聞社の終焉を意味する。生きるために、新聞社の細胞であり、器官であり、手足であるすべての社員が本能的に動いた」

 新聞制作は記事、編集から印刷、発送まですべてコンピュータ制御。本社で発行できない状態になった。神戸新聞と京都新聞は1年前に「緊急事態発生時の新聞発行援助協定」を結んでいた。京都新聞編集局は全面的に受け入れた。だが、現場は「協定」などどうでもよかった。

「仮に協定がなくても、何の躊躇もなく協力したでしょうね。ただ、協定があったおかげで社内の手続きは不要でした」

 神戸新聞の創刊は1898年(明治312月。兵庫県域紙として無休刊の歴史を持つ。1918年米騒動の焼き打ちでも、45年の神戸大空襲による社屋消失でも、姉妹社・他社の協力で途切れさせなかった。
 整理部長ら6人が京都新聞で原版を作成し、バイクで神戸市西区の製作センターに運ぶ。
 社長からあらゆる部門の社員、販売店、食堂スタッフまで実名で登場する。彼らを支えたのは京都新聞はじめ新聞各社や通信社、印刷会社、コンピュータ会社、建設会社などなど。それに読者。

 124日朝刊に陳舜臣が寄稿した。

私たちは、ほとんど茫然自失のなかにいる。
 それでも、人びとは動いている。このまちを生き返らせるために、けんめいに動いている。(略)
 神戸市民の皆様、神戸は亡びない。新しい神戸は、一部の人が夢みた神戸ではないかもしれない。しかし、もっとかがやかしいまちであるはずだ。人間らしい、あたたかみのあるまち。自然が溢れ、ゆっくりながれおりる美(うる)わしの神戸よ。そんな神戸を、私たちは胸に抱きしめる。

(平野)

2015年1月13日火曜日

須磨の近代史


 『須磨の近代史――明治・大正・昭和史話――』 神戸市須磨区役所 平成103月初版 平成258月第3 頒価500

目次

須磨の歴史(近代) 田辺眞人

地図に見る須磨の近代

須磨の史話  明治維新後の行政改革 小学校のはじまり 須磨と肺結核 須磨浦公園 異人館 須磨の漁業 武庫離宮と大正天皇 民俗芸能 須磨百首かるた 板宿・武井秋錦園 ……

表紙写真 山陽電鉄境浜停留所(昭和8) 

海水浴シーズンだけの停留所。水がきれいだったことと、電鉄がさまざまな催しを行い、賑わった。潮流によって砂浜の侵食が進み、昭和32年幕を閉じた。
 
 明治時代、肺結核はまだ不治の病だった。療法は、休養をとり栄養をつけ体力を養う。良い空気、日光浴、散歩、それに海水浴。明治22年、日本初のサナトリウム「須磨浦療病院」が創設された。院内で野菜・果実を栽培、畜産も手がけ、食事は西洋流を取り入れた。結核専門だが、無医だった須磨の人々はすべての診療を受けるために訪れた。
 明治285月、日清戦争従軍の帰途、正岡子規は喀血。神戸港に上陸して神戸病院に入院。小康を得て、7月、高浜虚子が付き添って「須磨保養院」に移った。ここは「須磨浦療病院」とは別だが、子規は同病院長・鶴崎の診療を受けている。子規は須磨の句を多く残し、小説にも書いている。
藻塩たれつつ侘ぶといひし須磨は海水浴の名所と変じて海士が焼く烟とみれば汽車のすぎゆく世の中……》「月見草」
 子規は8月末で退院、故郷松山に戻った。
(平野)

2015年1月12日月曜日

おかんアート


 おかんアートとハンドメイド展 1.1011 終了しました。

 ゆるーくて愛らしい「おかんアート」の数々。

 下町アーチストたちの凄腕!

 一番下の写真は3cm四方の紙で折った亀。

「前は2cmでも折れたんやけど」
 








 

 

2015年1月11日日曜日

巨大絵画が繋ぐ東北と神戸


 加川広重 巨大絵画が繋ぐ東北と神戸 2015

1.10~1.18 デザイン・クリエイティブセンター神戸 KIITO

13日休館 最終日17時まで)
入場無料

 巨大絵画「フクシマ」(5.4×16.4)を展示。その前で舞踏、演奏などさまざまなパフォーマンスを展開。ギャラリーと会議室では、写真展、被災地復元模型展示、映画上映、トークセッションも開催。









 

2015年1月10日土曜日

須磨の歴史散歩


 田辺眞人(まこと) 『須磨の歴史散歩』 神戸市須磨区役所 平成93月初版 平成193月改訂版 頒価500円 A5判 160ページ

 著者は1947年神戸市生まれ、園田学園女子大学名誉教授(歴史学・比較文化論)。神戸市・兵庫県郷土史の著書多数。

 先史・古代から現代までの〈須磨〉を中心に時代の流れを見、史跡・文化遺産を訪ねる。
 地名の由来は、古来この地が畿内と山陽の境界だったことによる。六甲山地が海岸まで迫り、山と海にはさまれた角(すみ)の地形で、畿内の西南端=すみっこ。〈スミ〉が〈スマ〉になったという説。「栖間」=「住み良い所」という説もある。漢字では〈周麻〉〈珠馬〉などと記されたが〈須磨〉に定着した。
 奈良時代、現在の須磨浦公園一帯は峻険な荒磯で〈赤石櫛淵〉と呼ばれた交通の難所。山陽道は山の北側を迂回していた。平安時代に砂浜が広がり街道が通じ、荘園開発が進んだ。風光明媚な土地で、昔から歌に詠まれている。
 源兼昌 「淡路島通う千鳥の泣く声にいく夜寝覚めぬ須磨の関守」

 

第1章   須磨の歴史  

1節 先史・古代  須磨の地名と赤石櫛淵  板宿の地名と菅原道真  松風・村雨堂と在原業平 ……

2節 中世  平清盛と築島建設  一の谷と福原の都  平家の敗走  松岡城と足利尊氏 ……

3節 近世  近世の村々  西国街道を歩く

4節 近現代  阪神・淡路大震災と須磨  地震の歴史に学ぶ

第2章   史跡・文化遺産

第3章   観光・レジャーのために  おすすめ散策コース 物産 ……

第4章   資料編  神戸市編入後の主な出来事  町名の由来  指定文化財

参考文献  史跡・社寺(索引)

 表紙の絵は、月岡芳年「一の谷大合戦 鷲尾三郎案内して鵯越の裏手を越る図」(神戸市立博物館蔵)。

(平野)
 須磨で働くことになったのもご縁、板宿〈井戸書店〉にご挨拶。本書ともう1冊購入。〈くとうてん〉の本を沢山売ってくださっている。

「板宿(いたやど)」で思い出した。須磨を舞台にした小説で「いたじゅく」とルビがあった。著者は須磨ゆかりの人なので、編集の間違いでしょう。