2015年7月25日土曜日

鶴見俊輔『神話的時間』


   鶴見俊輔 『神話的時間』 熊本子どもの本研究会 19959月初版 9655
 

 同研究会10周年記念事業。鶴見の講演、谷川俊太郎と工藤直子の対談、佐野洋子、西成彦、谷川の鼎談を収録。
「神話的時間」とは、鶴見がカナダの文化人類学者から聞いた話から。
「聖書を、私たちがここで読むとして、どれほどわかるだろうか」
「聖書の本文が置かれている時間の流れを、今、私たちがここで置かれている時間の流れの中で読むと、その意味は全然違うんじゃないか」
 現代社会の私たちが、無文字社会時代の聖書を読んで、聖書のもとの意味を受け取れるのか? 
 鶴見は、答えの手がかりが「私たちの暮らしの中にある」と語る。

《零歳の子どもに何かを言い掛けるとき、子どもは文字のない社会にいるんです。そこに子どもは暮らしていて、しかも既に言語を習得しているんです。零歳の子どもをただ寝かせておくと、気持ちがいいときには、しきりに口を動かしているでしょう。子どもは非常に早い時期に、言語が、その全体の構造がわかっているんです。子どもはわからないと思って黙っていろいろ子どもの世話をするのはよくないですね。話し掛けたほうがいいんです。わかるんです。ですが、子どもはまだ文字を知らないですし、無文字社会にいる。(中略)
 二歳三歳の子どもは、私があるいはあなたが教えたことを、直に、子どもがこちらにまた教えてくれることがあるでしょう。そのときに、「それは私が教えたことではないか」っていうふうに子どもに言い返さないほうがいいんです。つまりその考えは、その話は、二人の間に共有されているんですから。二人の間に置かれて、右から左へ、左から右にというふうに話が自由に動いているんです。話が誰のものとも考えられずに共有されている。それが旧約聖書の時間なんです。(後略)》

 子どものために絵本を読んであげていて(子どもだけが神話的時間の中にいる)、親も物語の世界に入り込んでしまって同じ神話的時間の中で読んでいる、ということに心当たりがあるのでは。
 その「神話的時間」に父親は参加しているだろうか、というのが講演の主題。

《義務の問題じゃないんです。人間が生きるうえでの重大な愉しみに関する問題です。》

 
「神話的時間を生きた人」たちを紹介している。作家もいれば医者もいる。それぞれが、

《神話的時間に触れたときにいい作品を書いている》(原文傍点)
 という仮説。

その中の一人、児童文学作家・乙骨淑子(おつこつよしこ)と、その父・村谷壮平の話。村谷と鶴見は海軍軍令部で翻訳の仕事をしていた。

《「鶴見さーん。どうも僕ぁ、この戦争負けるような気がしてしょうがないんだけども、鶴見さんはどう思う?」って言うんですよね。私は負けると思ってるんですよ。負けると思ってるだけじゃなくて、この戦争は正しい戦争だと思っていないんでね、そういう質問をしてもらいたくない。(略、鶴見は制裁を受けたくないから、名指しされて困る。村谷は殴られることはない)なぜ殴られないかと言うとですね、この人はね、猥談の名手です。とにかく猥談をでかい声でやって、みんなを沸かして、気分が沈滞しているときに、気分を高揚させるでしょ。だから殴られないんです。どういう猥談かというと、陰湿な猥談じゃないんですよ。(略、船が難破してボートを漕いでいたら真っ暗なところに入ってしまって出られない。メス鯨の陰部に入っていた、というような)軍隊の中で、そういう話をする人間は貴重なんです。落語家を一人隠しているいるようなものですから、そりゃ殴られたりしないんです。(後略)》

 沈黙した鶴見は自分を卑小と感じた。
 村谷は家庭でもそんな話をしただろう。淑子は軍国少女、戦後は共産党の活動家になる。とにかく真面目で、自由な父と対立する。淑子は党分裂で離党し、市民運動に加わり、鶴見と出会う。その頃に淑子は父の「知恵と誠実さ」がわかるようになる。作品で父をモデルにしている。淑子は骨の癌になり、その最期の時、村谷が病院の酸素テントの中に入り、

《今まであった楽しいことを娘に話して聞かせる。》

 淑子は作品に父との「神話的時間」を書き、最期は父と共に「神話的時間」の中にいた。

(平野)京都の古本屋さんで。