2015年8月29日土曜日

青雲の軸(その2)


 陳舜臣『青雲の軸』 集英社  その2

 第2部、1941(昭和16)年3月、俊仁の大阪外語学校印度語部合格から始まる。この年12月、ついに対米英宣戦布告。
 中学では軍隊式教育だが、上級学校にはまだ「自由のかけら」が残っていた。

《だから、中学から上級学校への進学は、少年たちにとっては、大袈裟にいえば、地獄から極楽へのエスケープであった。》

 台湾から日本に受験に来る同胞たちとの交流があった。陳家が彼らの世話をした。台湾では教育でも差別を受けていた。台湾の入学試験でも日本人受験生が優遇され、優秀な台湾人は門戸を閉ざされていた。日本の学校を受験したほうがマシだった。受験生のひとり、李騰志(のちに台湾の指導者になる人)と親しくなる。

《「日本に来て、ちょっとふしぎに思ったことがあるんだ。こちらの人間には、あの日本人目がない。意外だったなあ。……」ある日、いっしょに元町のうどん屋でうどんを食べているとき、李騰志がふとそんなことを言い出した。(中略、台湾人に対して日本人の目に表れる差別的態度。内地には台湾人が少ないし外形ではわからないから「日本人目」も存在しない)
「そんなかんたんなことなんだな。理由を言われると納得するが、ひろい世間を見たという気がするよ。内地の日本人はまるで別の民族みたいだ。日本人があんがい親切だということも、こちらに来て、はじめてわかった」》

 李は志望校に落ちた。帰郷する彼を中突堤で見送った。李が別れ際に、記念だと言って漱石の『草枕』をくれた。俊仁は彼との「心のつながりの証拠」として大切にしようと思った。
 俊仁は神戸在住の外国人とも親しくなった。インド人のジョンとメリー兄妹。ジョンはインドの研究をしている俊仁に、「研究する値打ちのものがありますか?」と、祖国を皮肉る。植民地だから進歩できない、また、植民地のおかげで「暗黒世界」から「人間ギリギリの線」にいられる、と。トルコ人のアスタはロシアに住んでいた種族で、ソ連になって中国東北部に逃れ、日本に移住してきた。
 開戦直前、在留外国人への警戒が厳しくなり、米英人は引き揚げていく。彼らは家財を処分した。トアロードで老人が蔵書を道ばたに並べていた。俊仁は「シャーロック・ホームズ」シリーズを3冊買った。老人の悲しそうな目、そして、彼は「グッド・ラック」と言った。

Good-byeではなく、Good luckと言ったのはなにか意味を含ませたのかもしれない。

 通りすがりの学生にたいしても、その老人は惜別の情を抱いたのであろう。老人はこの国の人とは、もう再び会えないと思っているのにちがいない。――
 俊仁は胸がしめつけられるようだった。》

 親しい人たちも帰国していく。

《神戸の町に、すこしでも奥行きらしいものがあるとすれば、それはそこに別れがあるからではないだろうか?
 幕末ぎりぎりの開港によって、神戸はようやく都市らしいものを形成しはじめたのである。京都や大阪のような、伝統のある町とはちがう。どうしても浅薄にならざるをえない。それをどうにか救っているのは、港を舞台にくりひろげられる、おびただしい別離劇であろう。それがなければ、神戸はどうしようもない、薄っぺらな港町に堕したにちがいない。》

 戦争は深刻化し、俊仁は繰り上げ卒業し、同級生たちは戦場に行く。米軍本土空襲が始まる。関東の高校に入った李は「志願兵」を強制されるが忌避し、逃亡生活。ジョンは空襲の時、日本人に襲われ負傷する。
 45815日、俊仁は玉音放送を身ぶるいして聞いた。はっきり聞き取れ、意味もわかった。ジョンとメリーに会う。

《「べつに用事はないんだ。いろんなことを話したくてね」と、ジョンはいった。
 そうだ、いろんな話がある。
 若者のなかには、自分でも気づかない、すばらしいものの芽がひそんでいるものだ。話しているうちに、そのいくつかをつかむことができるかもしれない。
 そのうちに、彼女もやってきた。やはりいろんなことを話したそうな表情であった。
 新しい時代の幕がひらいたのだ。――

「彼女」とは、俊仁がしあわせにしたいと決めた人。

(平野)

 『海の本屋のはなし』あれこれ

 9月2日 ワールドエンズ・ガーデン
「『海の本屋のはなし』読書感想会」
http://d.hatena.ne.jp/worldends-garden/20150812

 先日紹介した「週刊朝日」朝山実さんの文章はこちらで読めます。
http://dot.asahi.com/ent/publication/reviews/2015082700019.html
 
「読書カード」
 懐かしい顧客さん、私が知らないOBさん、近辺の方、遠方からも。ありがとうございます。

2015年8月27日木曜日

青雲の軸(その1)


  陳舜臣 『青雲の軸』 集英社 19842月刊

197072年に『螢雪時代』連載した自伝小説。幼少時から19458月までのこと。小説では「陳俊仁」。
 俊仁が生れたのは1924(大正13)年。俊仁は子ども心に自分が家の外の人間と違うことに気づく。家で話している言葉が遊び友だちに通じない。子どもたちと遊んで覚える言葉が家で通じない。そのことで悩んだわけではない。

《(どうやら、ぼくはほかの子供たちと違うらしい)と、かんじただけである。》
 しかし、小学校に入学する頃には他人の言葉に隠された意味を理解するようになる。

《そのころからである。――悪童たちが、こちらに浴びせることばに、すくなからぬ侮蔑の調子がこめられているのに気づいたのは。》

 台湾は日本の植民地で、台湾人は日本国籍を持つ。でも、日本人ではない。俊仁にも数々の苦い思い出がある。
 小学生の時から港と船が大好きで、毎日のように港で船を眺めていた。『船と空』という月刊誌を愛読し、新聞の「出船入船」欄の熱心に読んだ。商業学校1年の2学期、1936(昭和11)年秋、神戸港沖に海軍の艦船が集まり、それを天皇が視閲する行事=大観艦式が行われた。帝国海軍の大デモンストレーションで、俊仁は楽しみにしていた。しかし、前日の授業中に配属将校から呼び出される。呼び出された生徒は俊仁だけではない。彼らには共通点があった。植民地出身の生徒だった。そして、明日の外出禁止をまわりくどく厳命される。大観艦式を見学してはならないという脅迫である。

《観艦式はこんなふうにして、彼のなかで溶けて消えた。》

 友の病死があった。日中戦争が始まった。阪神大水害が起きた。進学しても戦争で卒業できるのか。不安、不満、疑念など、俊仁は様々な出来事のなかでわき起こる感情を整理した。進学志望を外国語学校のインド語科に決めた。

《「みんながやるようなことやったかて、どないもならんやろ」俊仁はなに気なしにそう言ったが、じつはそれが彼の本音であったのだ。
 彼は少数派人種である。まず日本人でないということが、彼の精神の支柱であった。他人とはちがうということが、生きるための糧であった。みんなとおなじ存在になっては、その糧を失い、餓死してしまうかもしれない。
 行不由径。――行くに径に由らず。(中略、人生は大道を歩めという格言)
 大道とはみんなが行く道のことであろう。しかし、俊仁はみんなが行く道を、自分が行ってはならないと、頑固に信じていた。大ぜいの日本人のなかに、変わり種として投げ込まれた自分の、それが宿命のようなものではあるまいか。――(後略)》

 インド語を選んだのは、使用人口が多いことだけではなく、インドがイギリスの植民地であることもあった。

《たかだか志望校をきめただけにすぎないがなにか一つの懸案が解決され、長いあいだかぶさっていた覆いが、とつぜん取り払われたような気がした。その風通しのよさが、彼にはさわやかであった。》

 ここまでが第1部。第2部では台湾同胞や在日の外国人たちとの交際をまじえ、戦争中の混乱、終戦の日を書く。

(平野)神戸市立中央図書館蔵。

  『海の本屋のはなし』あれこれ

「日本の古本屋メールマガジン」に載せていただきました。


『週刊朝日』94日号の「週刊図書館」で紹介いただいています。
《親しまれた書店の「戦記」である。》
 書いてくれたのは朝山実(あさやま じつ)さん。関西で出版営業をしてはった時にお世話になりました。現在はインタビューライターとして活躍中です。著書に、『アフター・ザ・レッド』(角川書店)、『父の戒名をつけてみました』(中央公論新社)など。
 

2015年8月24日月曜日

「谷根千」地図で時間旅行


  森まゆみ 『「谷根千」地図で時間旅行』 
晶文社 1800円+税

 著者は雑誌「谷根千」編集者(1984年創刊、2009年終刊、終わって6年も経つのか)、地域の歴史を掘り起こし、記録してきた。本書では、江戸時代からの地図を集めて、「自分の町」という地域に限って定点観測して、歴史を読み解く。

《ここでは範囲をなるべくしぼり、私が自分の町と感じ、そこで四半世紀、谷中、根津、千駄木(以下通称「谷根千」)に限る。広くともわがルーツの地である日本橋、母が養女に来て育った浅草、谷根千周辺の上野、上野桜木、日暮里、田端、弥生くらいしか言及しない。(中略)
 私自身、三〇年前に地域雑誌「谷中・根津・千駄木」を始めてから、江戸の痕跡がいかに多く町に残っているかに驚かされた。寺社仏閣はおどろくほど動いていない。坂や橋の名前、交差点や町会の名前にもその痕跡がある。遺物だけでなく、旧武家屋敷のあった台地上には、現代の武士ともいえる、国家公務員が公務員住宅に、あるいは大企業の会社員が実家を継承したりして住み、谷沿いにはいまも昔も商人や職人が多く働いている。構造は引き継がれている。その上にはもちろん、明治、大正、昭和の改変が降りつもっているのではあるが。(中略)
 東京は、二六〇年の長い江戸の平和のあとの戊辰戦争、大正の震災、昭和の戦災と何度かの天災人災、そして明治時代の市区改正から東京オリンピックにいたる上からの人為的改造で大きく姿を変えた。もちろん江戸は大火が多かったので何度も焼けている。「谷根千」の町は幸いにも震災、戦災に比較的残り、一九六四年の東京オリンピックとも関係なかった。八〇年代、バブル時の乱開発はあったものの、大規模な改変にはさらされなかった土地といえよう。(後略)》

 古地図だけではなく、古老たちが記憶で描いた地図、聞きとりで再現した地図も収録。

(平野)
 お江戸で買った本。私は「谷根千」に全く土地勘なく(東京全体そうだが)、2度ウロウロしただけの場所。ただ、家人の母方の墓が谷中墓地にあり、彼女は機会があるたびに参っている。

  『海の本屋のはなし』あれこれ
823日 『海の本屋のはなし――海文堂書店の記憶と記録』出版記念トークイベント
Jazz喫茶M&M
主催 古書うみねこ堂書林
出演 小林良宣 福岡宏泰 平野義昌

 定員30名満員。
 福岡店長が、閉店して2年になろうというのに、いまだに多くの人が来てくださる、ありがたいこと、とお礼を言いました。
 皆さんが海文堂を惜しんでくださっていること、懐かしんでくださること、ほんとうに感謝しています。
 私たちはそろそろ新しい前向きなことをしなければなりません。「計画」はあります。なるべく早く発表できればと思います。
 とりあえず、ミニコミ『ほんまに』第17号に取りかかります。特集「追悼 陳舜臣」です。

2015年8月22日土曜日

小出楢重の肖像


盆休み、子どもたちが今年は帰らないと言うので、親の方から上京。美術館行って、野球観戦して、ちょっとだけ本屋めぐり、それと野獣NR出版会訪問。

「渋谷大古本市」東急東横店にて。

  岩阪恵子 『画家 小出楢重の肖像』 新潮社 1992年刊

小出は大阪生まれの洋画家(18871931年)。家族肖像画、裸婦像で知られる。谷崎潤一郎作品の挿絵もあるし、文章も達者。生家は島之内(船場と並ぶ商業の中心地)の薬屋。親の反対を押し切り、1907年東京美術学校に入学。楢重が画壇で認められたのは1919年の二科展に出品した「Nの家族」、親子3人、卓上に果物や本がある。

《帽子をかぶったNは、着物のうえに羽織を重ね、右肩を心もち後ろへ引いた恰好で煙草をくわえている。その白い紙巻煙草の先端から薄い煙がほぼ垂直に漂っている。Nは画家楢重。幼い一人息子泰弘をはさんで、妻の重子がすこし不機嫌ともみえる表情で俯いている。彼女のつぶやきが私の耳もとまで届いてくるような気がする。

「あんさん、ほしい思うたらなんでも買いなはるよって……二月の家計の八十五円足らずのうち、二十七円ちょっとが絵具や額縁やテーブルに要ってます。お医者には家中でようかかりますやろ、五円六十銭払いました。それに泰弘の牛乳代が馬鹿になれしません、六円四十五銭です。それと十七円がどうでも家賃にかかりますやろ……」(後略)》

 住まいは日本画家が住んでいた家で、2階が畳敷きの画室。絵はそこで描かれたもの。生活資金は実家と友人たちの援助だった。
 楢重はそれまで文展に3回落選、この作品は二科展出品前から入選すると自信を持っていた。

《この自信がどうしてもたらされたのかを考えると、もちろん周囲からの称賛にも助けられたであろうが、文展落選をふくむ不遇の数年間、楢重を内からささえてきたものが、とりもなおさず自らを強く恃む心であったことである。この自恃が自信となるのは当然であった。それを裏づけるのは、美校時代からの日日の真面目で熱心な絵画にたいする彼の姿勢であり、技術の修練であっただろう。「何事も修業だ修業だと私は思ふのだ」と彼は書いているではないか。(後略)》

「Nの家族」は倉敷の大原美術館蔵。


『安水稔和詩集』(思潮社現代詩文庫、1969年初版ですが、入手したのは754刷)も。


  『海の本屋のはなし』あれこれ

 共同通信社配信で永江朗さん書評があちこちで。サポーターたちから「山陽新聞」と「四国新聞」をいただきました。
 職場の大先輩がうみねこ堂書林イベント記事「神戸新聞」コピーをくださいました。
 皆さんありがとう。



 822日、長田区鷹取のインターネットラジオ・FMわいわいホンネでわいわい 一行詩のひろば」収録。
 海文堂時代お世話になった「きかんし協会」の番組にお招きいただきました。拙著の話や本屋、読書について話しました。
 メインキャスター・林英夫さん,FMわいわいパーソナリティ・高見かおりさん、きかんし協会・畦布哲志さんに導かれて、わりとリラックスして話したつもりです。スタッフの皆さん、ありがとうございます。
 終わってみるとズボンのお尻は汗びっしょり、やっぱり緊張していました。9月毎週土曜日放送予定です。改めてお知らせします。

 「ほんまにWEB・奥のおじさん」更新しています。
http://www.honmani.net/index.html

(平野)

2015年8月13日木曜日

虹滅記


  足立巻一 『虹滅記(こうめつき)』 
朝日文庫 199411月刊 

巻末エッセイ 司馬遼太郎

 祖父と父のことを中心にルーツをたどる。同人誌「天秤」(1974年~76年)、「六甲」(79年~81年)連載。81年朝日新聞社より単行本。

足立の父・菰川(こせん)は新聞社・二六新報社で政治・経済を担当。1913(大正2)年、足立が生まれて3ヵ月後に亡くなった。母は再婚し、足立は祖父母に育てられた。祖父は「敬亭」の号を持つ漢学者、東京で塾を開いていた。祖父は長崎の富商の養子だが、家から離れ財産を食い潰した。祖母が亡くなると、祖父は足立を連れて放浪、長崎に戻ったところで急死。足立は親戚の寺で育ち、9歳の時、神戸にいた母方の伯父に引き取られた。
  戦前のうちに足立のもとに長崎の寺から稿本や日記類が送られていたし、祖父の門人が預かっていた蔵書も返されていた。父に『鎖国時代の長崎』という著作があり、父の死後、祖父がそれを清書し完成させたことも知ってはいた。足立が父の著書を手にしたのは、1965(昭和40)年、長崎県立図書館。祖父の手による凡例に、「起草より完尾まで五年十一月を費し、父子の心血を注ぎ稿を更(あらた)むること四回に及べり」とある。

《……この「凡例」を読み終わったとき、暗いランプの下で息子の遺稿をたんねんに毛筆で書きついでいる敬亭の顔が見えた。眉が濃く太く、目がギョロリとして鼻梁は高い。いつも白髪まじりのかたい無精ひげが頬にさかだっている。その顔に深い影をきざみこみ、目を充血させたようにして、関節のふとい指で、一字一字彫りきざむようにして書いたのであろう。
 わたしが『鎖国時代の長崎』の「凡例」で、とくに胸を打たれたのは「虹滅」という字句である。「著者俄かに虹滅し去る」――突き刺すように悲痛なことばだと思った。いろんな漢和辞典を引いてみても熟語として出ていないところをみると、「虹滅」は敬亭の造語のように思われる。
(中略、敬亭の漢詩は2500首)それがどんな詩であるかをわたしは知らないけれど、その大量の詩詞のなかで、この「虹滅」がもっとも切実で鋭利なことばであり、詩そのものであったのではないかと思われた。
 たしかに、敬亭にとって菰川は虹のように滅んだのである。》

 足立は、祖父の記録や縁者と自らの記憶を頼りに、長崎、福井県坂井市、山口県大津島と、先祖をたどり、血族の墓を訪ね歩く。祖父と父の評伝を軸に、一族の縁ある人びとをしのんでいる。

(平野)

  『海の本屋のはなし』あれこれ
  92日 灘区ワールドエンズ・ガーデン
「海の本屋のはなし」読書感想会 
  こちらを。
http://d.hatena.ne.jp/worldends-garden/20150812

2015年8月11日火曜日

道半ば


  陳舜臣 『道半ば』 集英社20039月刊

「陳舜臣中国ライブラリー」全30巻(集英社、19992001年)の月報と、「青春と読書」(同社、2003年)に連載した「道半ば」。生い立ちから江戸川乱歩賞受賞までを語る。と、一言ではまとめてはいけない。戦時下から戦後、学問を志す台湾人青年の半生。
 台湾人は日本国籍をもっていた。陳の父親は貿易商、特高の監視下にあった。陳の世代、台湾人に兵役義務はなく志願制だったが、大学1級下の同胞は志願を強制され入営した。2歳下の弟(1945年満20歳)から台湾人にも徴兵制が適用された。

《台湾はいうまでもなく日本領であったが、そこに住む人たちは、完全な日本人とは認められなかった。(中略、台湾に設立された帝大入学試験でも差別があった)
 なかには差別されて、却って幸いだというのもあった。それは国民の義務とされた「兵役」がないことである。純血主義の日本は、台湾人の兵士などは安心して使えなかったのだ。
 軍夫という制度はあった。読んで字の通り、軍隊の人夫である。兵士ではなく、軍に使役される「苦力(クーリー)」にほかならない。
 志願制ということになっているが、各郡役所に強制的に人数を割りあてるのだ。事変が始まると、軍夫は中国戦線各地に送られた。(後略)》

 陳は大阪外国語学校を約2年半で繰り上げ卒業させられたが、「西南アジア語研究所」に残ることができた。仕事はインド語の辞書編纂。敗戦まで4年あまり勤めたが、戦争終結によって「身分に大きな変化」がおこる。

《日清戦争によって、我々台湾人は自分の意思にかかわらず、国籍を清国から日本に変更させられた。そして五十年後、太平洋戦争の終結によって、再び国籍を中国にさし戻されることになった。これまた本人の意思に関係なくそうなったのである。
 これが私立の学校なら、あまり問題ではなかったが、大阪外語は国立なので、複雑な問題がおこった。
 日本人でない限り「任官」できないのである。(後略)》

 1946年陳は台湾に帰郷する。

《帰郷することにきめたというが、私は神戸生まれなので、故郷がどこかときかれると、いささか考えこんでしまう。私に限らず都会生まれの子は、同じような問題をもっているだろう。(中略)
 たいていの人は、もう神戸を故郷と思い定めている。じつは私たちもほぼ同じ状態であったが、ただもう一つの故郷が、たいへん遠いということがちがっていた。これは距離的に遠いというだかでなく、「異郷」といってよいほど質的な距(へだた)りが大きい。かんたんに「おち着いたらまた」と言えない。国籍までちがってしまったのである。(後略)》

 陳は新設の中学で英語教師になるが、台湾の政治は国民政府のしめつけや大陸の内戦で混乱。49年第一期の卒業生を送りだして神戸に戻る。
 貿易の仕事を手伝いながらペルシャ語の勉強をしていたが、敗戦時に学問の道はあきらめた。「せめてペン・マンとしての道を歩みたい」という望みはあった。小さい頃から読書を楽しみ探偵小説もよく読んだ。コナン・ドイルは原書で読んだ。
 陳は長年親しんだペルシャの詩集「ルバイヤート」の日本語訳を試みるが、ちょうど岩波文庫で出た小川亮作訳の素晴らしさに驚く。

《私は自分の青春とともにあったルバイヤートが、すぐれた訳者を得たことをよろこび、そして祝福した。
 さらばルバイヤート、のつぎのことばを私は考えた。
 ――今日(こんにち)は、ミステリー。(後略)》

(平野)
暑くてしばらく休みました。パソコンもちょうど故障していました。

 『海の本屋のはなし』あれこれ

「海の本屋のはなし――海文堂書店の記憶と記録」出版記念トークイベント
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=860422844046985
823日(日)15時~17
Jazz喫茶 M&M 中央区栄町通2-7-3
福岡宏泰 小林良宣 平野 のおっさんトーク
参加費 1500円(飲食代含む)
定員 30
申し込み うみねこ堂書林(火・金曜休み) 078-381-7314
uminekodo@portnet.ne.jp

「岩手日報」89日書評で永江朗さんが取り上げてくださいました。
https://twitter.com/kobekurakudo