2016年2月1日月曜日

よこまち余話


 木内昇 『よこまち余話』 中央公論新社 1500円+税

 大正末か昭和初め頃、舞台は東京下町の路地にある長屋、登場人物は裁縫で生計を立てる齣江ほか住人や周辺の人たち。皆地道に商いをし、モノをつくる。糸屋の若旦那が新しもの好きで人造絹糸に熱心なくらい。彼は「モダニズム」なんてことも言う。時代は戦争に向かっている。
 この路地、妖しい出来事がいろいろ起こる不思議な場所で、この世とあの世の境目のよう。魚屋の次男坊・浩三の「影」はしゃべる。トメばあさんの家の押入れには芸者が出る。編笠の男が月に1度やって来て店賃を集めるのだが、必ず雨が降るので「雨降らし」と呼ばれている。トメと齣江はすべてをわかっているみたいというか、この世にあってあの世の人。
 浩三はトメと齣江と中学の先輩・遠野(昆虫研究を志望)と天神さんの能を見に行く。齣江と遠野は関わりがある(あった?)らしいと浩三は感じる。終了後、トメがいつの間にか旅装束になっていて、先に帰れと言う。齣江がトメに何か囁いた。浩三にも聞こえた。

「薄霧のまがきの花の朝じめり秋は夕と誰かいひけん」
 浩三はあとで遠野に「花伝書」に引用されている歌だと教えてもらう。
《「この歌はさ、朝の薄霧の中に咲いている花の様子も、夕べのしおれも、同じように素晴らしいと云っている。僕はそう解釈しているんだ。だいぶ意訳だがね」》

舞台に能役者が立っていた。彼は編笠をかぶって「雨降らし」の格好になった。トメは彼に近づく。「影」は浩三に「婆さんの姿を、しっかり記憶に留めておけ」と言った。
 トメはこの日を最後に長屋から姿を消す。長屋の住人は齣江と浩三以外誰もトメのことを覚えていない。
 齣江は、
《いるべきところに、戻ったのよ。覚えていればいいの。みんなが忘れてしまっても、覚えていてくれればいいのよ》
と言う。トメは幼いときから花街で働き、芸者になった。まだ江戸と呼ばれていた頃のこと。
 続いて、齣江も長屋を去る。元いたところに戻ると言う。浩三のために新しい着物をこしらえてくれ、遠野と仲良くするようにと言い残した。
《「浩ちゃんにはちゃんと現実があるから、とても助けられたのよ。先を変えることはできないけれど、浩ちゃんといるだけであの人は広い世界を見られたから」》

遠野のガールフレンドが田舎から遊びに来るというので、浩三は付き添いを頼まれる。浩三は何かを予感した。動悸が早くなり、「昂揚と動揺と困惑とがのしかかって」きた。
 当日、浩三は齣江にもらった着物を着て行く。遠野と彼女の姿を見た。
《はじまっていくんだな、と浩三は思う。それがいかなる場所へ向かおうとも、はじまりというのは、これほど強くて美しいんだな、と身が震えた。》

 あの人たちはもうこの世にいないが、いたことは確か。またこの世で出会うかもしれない。
 齣江は未来から来たのか?
(平野)