2016年4月29日金曜日

つばくら


 仕事の話はあんまりしないけど。
 勤務先最寄りの小さな駅を降りると狭い道沿いに商店が並ぶ。ツバメが飛来し、あちこちの軒先に巣を作っている。地元の人たちが「ツバメがやってくる町」をアピール。写真、小学生の絵、ツバメマップが展示されている。

つばくら
紺の法被(はっぴ)に白っち、
いきな姿のつばくらさん、
お前が来ると雨が降り、
雨が降る日に見たらしい
むかしの夢を思い出す。
薄田泣菫「こもり唄」より(原文は旧字旧かな)

 薄田泣菫(すすきだ・きゅうきん、本名淳介、18771945、岡山県生まれ)、詩人。
……日本古来の文脈をわがものとし西欧詩を消化吸収して浪漫的古典とも称すべき詩境をつくりあげ、象徴派の雄として蒲原有明と並び称された。〉君本昌久・安水稔和編『兵庫の詩人たち』(神戸新聞出版センター)解説より。
 明治末頃から詩壇より新聞人・随筆家として活躍。西宮に住み、大阪毎日新聞に連載したコラム「茶話」が人気を博した。

(平野)つば九郎と言えば、スワローズの調子が出ぬ。勝率4割、首位と6ゲーム差の5位(4.27現在)。スワローズファンでピンク映画出身の周防正行監督紫綬褒章受賞はめでたい。



ヨソサマのイベント
 ゴールデンウィークのイシサカゴロウ
430日~58日 (5.2 5.6は休み)
11001900
ヒュッテ 大阪市北区菅原町123 西垣ビル3F
http://www.g-be.co.jp/beans/atelier_details.html


 

『ほんまに』表紙担当イシサカゴロウの個展。
私は勝手にゴローちゃんと呼んでいますが、ほんまはゴロウです。
 
 
 

2016年4月28日木曜日

出版アナザーサイド


 藤脇邦夫 『出版アナザーサイド ある始まりの終わり 19822015』 本の雑誌社 201512月刊 1600円+税

 著者は1955年広島生まれ。業界誌を経て82年白夜書房入社し、営業マンながら出版企画、編集に参加。他の雑誌に書評を寄稿し、小林信彦研究本、出版論の著書もある。昨年定年退職。
 前職時代、同社の雑誌「ウィークエンドスーパー」(「感じる映画雑誌」のキャッチコピー、ヌード、ビニ本紹介)が目にとまる。荒木経惟、南伸坊、赤瀬川原平らが登場していた。81年夏、新雑誌「写真時代」創刊の広告が掲載された。

《発売日は今も憶えている、1981721日。隔月刊の9月号として創刊号は発売された。その日にいつも言っている書店に行くと、どこも売切れていて、やっとどこかの書店で表紙が半分折れているのを入手した。
 現物を見るとやはり画期的だった。写真雑誌の体裁をしている「ウィークエンドスーパー」のようにも思えないでもなかったが、写真雑誌にしてはエロが強く、エロ本にしては芸術的に見えるページもある。新しい雑誌の時代を告げるに相応しい雑誌だったことは間違いない。》

 同誌821月号に「編集スタッフ募集」の1行を発見、履歴書を送る。
 白夜書房といえば末井昭という有名編集者がいて、アダルト雑誌やパチンコ雑誌の印象が強いが、写真集、映画・音楽の書籍も出版している。藤脇は見習い期間中営業で書店回りをする。営業担当者が退職して、「写真時代」編集で採用のはずが「いつの間にか書店営業を自分が担当するような雰囲気」に。自分は書籍志望だし営業が企画を出してもよいということで、そのまま営業担当になる。書店営業をしながら、好きな音楽や映画の本を企画し、そこから人のつながりができて次の本の企画が立ち上がる。他社の編集者、作家、翻訳編集プロダクション、音楽業界の人たち、それにミュージシャン本人。
 事前予約で完売した豪華本もあれば、収支トントン、赤字もある。82年出版『ザ・ビートルズレポート』(竹中労著、1966年「話の特集増刊」を復刊)は赤字だった。

……営業会議で、「いろいろと書評も出て、内容的には評価されたんですが」と赤字に付いて弁明していると、社長から「何だ、褒められただけか」の一言で片付けられ、返す言葉もなかった。しかし、この言葉は今考えても大きな意味を持っている。商業出版は利益を出すことが最終目的で、評価など二の次。(中略)売れない自己満足な本より、利益を出す本を作りだすことの方が、企画も販売も高度な技術を要求されるわけで、入社早々、企画した本が思いもよらぬ結果となって、社内的にも、個人的にも発送の大転換を迫られることになった。(後略)》

 藤脇は自らの企画成功打率を60%前後と分析している。しかし、ある年のコミック60冊のうち2冊が赤字になって、始末書を書かされた。別の本では500万円の赤字を出して興奮した社長に叱責されたこともある。シビアである。商業出版である。
 自分の思い入れのある本を作りたい、他社が絶対に刊行出来ない本を作りたい、しかも採算が取れ、収益を出さなければならない。
「そうでなければただの遊びにすぎない」

《この本は自分の勤務していた会社の社史を書くのが目的ではなく、出版業界の中での自分史といった視点で書いたつもりだが、やはりこの会社にいなければ実現できなかったことがほとんどだった。それは今から考えるとさらにはっきりわかることで、適度にアナーキーでありながら、利益最優先という方針が、この本でふれた、すべての本の出版を可能にしたのだと思う。それは僕が常々言っている、98%が運で、残りの1%が才能、あと1%が努力という典型的な例といってもいい。》

(平野)荒木経惟の写真集に力を入れた京阪神の書店として、旭屋書店、紀伊國屋書店とともに海文堂書店とコーべブックスの名がある。私は三宮ブックスにいた頃で、お名前しか存じ上げない。

2016年4月23日土曜日

編集ばか


 坪内祐三・名田屋昭二・内藤誠『編集ばか』 彩流社 201511月刊 1600円+税
 

 文芸評論家・坪内、元『週刊現代』『ペントハウス』編集長・名田屋、映画監督・内藤。名田屋と内藤は早稲田大学政経学部同期1959年卒)で明治文化研究・木村毅の指導を受けた。坪内は2011年、内藤監督「明日泣く」(阿佐田哲也原作)に出演、さらに2015年、内藤が坪内のエッセイ「酒中日記」(酒場巡りと作家・文化人たちとの交流)をドキュメンタリー映画にした。本書は内藤の企画。名田屋の編集活動=「途方もなく型破りな話」を聞く。
 昭和30年代初期、映画の興行成績が最高潮、民放テレビ局が次々に開局、出版界は皇太子・美智子妃成婚で週刊誌創刊ラッシュ、という時代。

坪内 当時、出版社が週刊誌を出しても成功しないと思われていました。ところが『週刊新潮』が成功したのです。それで、これはいけると他の出版社系週刊誌もそれぞれの道を開拓していく。

名田屋 時代背景でいえば、テレビ時代の幕開けと学年誌の、曲がり角ということがありました。小学館が『小学一年生』、それに対して『たのしい一年生』と学年誌がぶつかり合っていた。その学年誌をやめて、少年向きにマンガ誌『少年マガジン』、そして大人のライフスタイルの模索として『週刊現代』を創刊したわけです。小学館ではマンガ誌『少年サンデー』を刊行します。

 名田屋は創刊されたばかりの『週刊現代』に配属される。編集長は文芸誌『群像』の大久保房男。

名田屋 ……当時の講談社のなかではエースの起用だったと思います。(中略)連載小説陣をみると、川口松太郎、松本清張、石坂洋次郎と当時の超流行作家を並べています。けれども、あまり部数は伸びず、すぐに方針を変えて、流行作家を切って『群像』時代に関係を築いた純文学畑の作家を起用しました。非常に大胆な方針転換です。(中略)吉行(淳之介)さんの『すれすれ』に、安岡章太郎さんは『ああ女難』を書きました。他にも梅崎春生、奥野信太郎、外村繁、北原武夫など他誌では見られない顔ぶれでした。(後略)

 作家と編集者、作家同士のいろいろな関係(純文学畑とかライバルとか)、恩師木村と松本清張のつながりなどをおりまぜて当時を語る。

名田屋 (配属当時)『週刊朝日』では獅子文六の『大番』、『サンデー毎日』では源氏鶏太の『新・三等重役』があってたいへんな評判で、いまよりも作家の力が週刊誌の部数増に貢献する度合いが強かったんです。したがって、作家の担当は当時はいまより重要で、また他に漫画家の加藤芳郎氏や荻原賢次氏などの原稿とりも忙しかった。とにかく取材して記事を書くために走りまわりました。やはり若いからできたのかな。

『週刊現代』は読者をサラリーマンにしぼり、67(昭和42)年百万部突破。ライバル小学館が『週刊ポスト』を創刊する。
 名田屋が副編集長時代に梶山季之の連載小説『かんぷらちんき』が警察に摘発され、講談社が連載を中止する。これに推理作家協会が猛抗議し、執筆を拒否。69年、名田屋が編集長になって、五木寛之『青春の門』がスタート、大ヒットする。

「品行は問わない、品性は問う」をモットーに、トラブル、スクープ、スキャンダル、新しい書き手発掘……。『週刊現代』だけではなく週刊誌が元気だった時代。
 名田屋は80(昭和55)年『ペントハウス』編集長に就任、「ヌードはニュース」路線でマスコミを騒がせた女性を登場させた。

(平野)

2016年4月21日木曜日

望郷のソネット


 白石征 『望郷のソネット 寺山修司の原風景』 深夜叢書社 
 20158月刊 2400円+税


 白石は1939年愛媛県今治市生まれ、元編集者、劇作家、演出家。新書館で18年間寺山修司の著作を担当した。50歳で演劇界に転身。寺山との出会いは学生時代に通ったシナリオ教室だった。
 83年寺山が亡くなった後も、出版を待つ作品が数多く残されていた。白石は追悼本『さよなら寺山修司』(新書館 1983年)の編集後記にこう書いた。

《寺山さんにとって愛着の深かったであろう、この残された仕事の山が語りかけてくるのは、何よりも寺山さんの果敢な人生と、寺山さんがついに選ぼうとしなかった〈平穏な人生〉のことである。
 会えば必ず、静養や息抜きをすすめるぼくたちに、寺山さんはいつも微笑を向け、今度からは映画の仕事は止めるよと言って、安心させてくれたものだった。
 でも、今はこの休息なしの疾走の連続こそが、寺山さんの人生だったのだなと思う。》

寺山は少年時代からずっと「不在」「わかれ」を書いてきた。父親は戦死、母親は遠い九州に出稼ぎに出て、母子家庭でさえもなくなった。

「世界で一ばん遠いところ」
《「わかれ」を綴りながら、幾重にも重なり微妙にズレていく過去の記述、その間にあって見え隠れするものこそ、幾度となく繰り返し、そのつど「物語」とし過去を語らなければならなかった寺山修司という名の「私」の悲哀であり、魂のありようだったのだ。
 それほど心の傷は深く、癒されつつも容易に記憶から解放されることはなかったのである。
 しかし、その反芻の軌跡だけが、たった一つの「故郷」へとむかう彼の魂を浮かび上がらせる。
 寺山修司の最後の詩が「懐かしのわが家」であったことは、示唆的であった。愛するものの「不在」=「少年時代」によって、彼の人生そのものが実は充たされていたことに思い至らされるからである。
 鉄路にたたずみ、汽笛の口笛をひびかせながら「世界で一ばん遠いところ」へ思いを馳せつづけてきた寺山修司の孤独な魂は、この世では決して実現しなかった「懐かしのわが家」へと辿りついたというべきかもしれない。》

「懐かしのわが家」829月、朝日新聞掲載)、第2連。
《……
子供の頃、ぼくは
汽車の口真似が上手かった
ぼくは 
世界の涯てが 
自分自身の夢のなかにしかないことを 
知っていたのだ》

(平野)

2016年4月18日月曜日

兵士の詩


 桑島玄二 『兵士の詩 戦中詩人論』 理論社 19733月刊
 


 桑島玄二(19241992)は香川県生まれ、
詩人。製造業で経理担当、自営業の後、76年から大阪芸術大学講師、85年教授。神戸の蜘蛛出版社から詩集を出版し、詩誌「天秤」に寄稿している。『神戸の詩人たち』(神戸新聞出版センター、1984年)に作品が掲載されている。
 足立巻一の解説から。
《桑島玄二は、わたしの古い詩のなかまのひとりであるが、戦後、一貫して戦争中の詩と詩人についての批判ばかりを書きつづけてきた。(中略)
 桑島は、なかまでは「桑島善人」と呼ばれている。いわゆるお人よしで、気が弱くて、人なつこくて、いささかあわて者で、いたずら好きで人をよくからかったりする。でも、悪意は微塵もない。また、そんな「善人」で、有能な経理技術者でもあるにのにもかかわらず、関係した事業でとんでもない負債を背負いこんだり、勤めた会社が倒産したり、病気になったり、おかしいほどつぎつぎに災難や不幸に見舞われる人物でもある。しかもなお奇妙なのは、どんな悲惨の底にいても、すこしも陰鬱の影を持たないことだ。いつものんき坊主のような顔つきをし、へらへらとやたらに明るく、冗談をしきりに飛ばす。が、詩を語るとなると、ドモリがちに戦争詩のことを述べたてるのである。そのときの桑島は語りつくせないもどかしさ、いらだたしさに内心悶えているように見える。そうして、戦争中の詩と詩人とのことばかりを書き継いで、もう二十年をとっくに越えた。》

 桑島の軍隊体験について、
《戦争末期のごく短い時期であったために、青春期のやわらかな心に逆に戦争は鋭く食いこみ、学徒出陣兵の悲哀がしみとおっていたことは、時にもらすことばからも容易に想像することができる。でも、それだけで桑島が戦争詩に固執しつづけたことにはなるまい。》(足立)

 足立は、桑島の戦争詩論の核を同郷で6歳上の詩人・森川義信の戦病死と確信する。森川は一般にはあまり知られていない。戦後、友人たちが彼の作品を紹介した。
 桑島は森川の戦死を戦中に知っていたが、その真相=発狂を知ったのは戦後のこと。
《太平洋戦争という巨大なものに踏みにじられていく青年詩人群。やがては、わが身に……である。しかしわたしには、森川が狂死(、、)果ていようとは、おもいもよらぬことであった。

 森川の詩友・鮎川信夫もスマトラで病に倒れたが、帰還できた。詩を書くことができた。森川を思い、書き、追悼した。
…………
「さようなら、太陽も海も信ずるに足りない」
Mよ、地下に眠るMよ!
君の胸の傷口は今でもまだ痛むか。》(死んだ男)

 桑島は、森川の狂死が詩人としてではなく戦争によるものであること=戦争の惨めさを嘆き、彼らの友情について書く。
……わたしは「反戦詩」のすがたをそこに見ているのに気付かねばならない。》

 桑島玄二については、画家で書物愛好家・林哲夫さんのブログが詳しい。
http://sumus.exblog.jp/14669925

(平野)

2016年4月16日土曜日

圭よ たつしやか


 『圭よ たつしやか  坂本遼詩集』 山本英孝編 大阪出版 19787月刊


 坂本遼(19041970)、兵庫県加東郡東条町生まれ。関西学院英文科で竹中郁と同級。在学中に草野心平の「銅鑼」に参加。1927(昭和2)年詩集『たんぽぽ』(銅鑼社)を自費出版、郷土の言葉で貧しい農民の姿を表現した。高村光太郎と室生犀星が高く評価した。兵役のあと郷里で農業。31(昭和6)年朝日新聞社入社。41年から45年兵役。戦後は社会部、学芸部、論説委員。詩は「歴程」同人、『たんぽぽ』に連なる作品や戦争体験を書いた。48(昭和23)年、竹中から児童詩誌「きりん」に呼ばれる。
 書名は手紙形式の作品シリーズから。〈おかん〉が大阪で働く息子に「圭よ たつしやか」と呼びかける。草野心平が「坂本遼を憶う」を寄稿。

「たんぽぽ」
《圭よ たつしやか
つめとうなつて あさ こおりをわつてちようずをつかふのがつろうてならん
おみい(・・・)を子もりにやろうとおもうが おまえはどうおもうど
こない大きいもんをあそばしといたらもつたいない
はよう返事をくれ (後略)》

〈圭〉は坂本自身、〈おかん〉は母。〈おかん〉は愚痴を書きながら、息子の心配をする。〈おみい〉は近所の身寄りのない子、子もり奉公に出るが失敗して帰される。〈圭〉は短い返事で、〈おみい〉を頼む、工場でケガをした、金送れ、と書く。〈おかん〉がまた書く。

おみ(・・)()とわしがまつとるさかい はようもどれ
うちのほうでは もう たんぽぽもさいとる
そないな いきうまの目をくりぬくやうな大阪がどうなるど》

〈圭〉の手紙も毎回〈おかん〉の身体を気遣っている。離れていても母子は思い合っている。
(平野)

2016年4月14日木曜日

かわいい夫


 山崎ナオコーラ 『かわいい夫』 夏葉社 201512月刊 1700円+税

ナオコーラさんの小説『昼田とハッコウ』(講談社、2013年)は「夫」=書店員をモデルにしている。雑誌『ダヴィンチ』(2013.11月号)に発表した『昼田とハッコウ』スピンオフ作品では海文堂のことにも触れてくれた。それより何より、海文堂廃業前に夫妻が訪問してくださった。「夫」は海文堂の見取り図を手描きして、フリーペーパー「海文堂の伝言」を作ってくれた。私はナオコーラさんにサインをもらった。色紙も保存している。
 本書は西日本新聞連載と書き下ろしのエッセイ。オノロケエではないので、安心(?)して読んでほしい。

《私の夫はかわいい。》

 いきなり書きます!?

《顔がかわいいのではなく、存在がかわいい。ざしきわらしのようだ。
 それで、エッセイを書くことにした。》

 自慢話ではないし、二人はお金持ちでも美形カップルでもないので、ナオコーラさんも「安心して」と断わっている。
 お互いを大切に思い尊敬し合っている。家族を大事にしている。作家の仕事はたいへんでしょう。私生活で辛いこともありましょう。でも、「夫」といっしょならきっと……と外野は無責任に思えてしまう。「夫」をかわいがってあげてください。

「弱い人」
 夫は「ひょろひょろしていて、肉体労働できなさそう」だし、「人からの命令に従ったり、あるいは人を下に従えたり」のタフな人間づき合いも不向き。兵士・戦争には向かない。自分も戦争になったら精神が崩壊するだろう、運動能力は低い、規律を守るのも苦手。でも、

……私は、夫や自分のような、「戦時下においては無能」とされるような人間の価値を守っていきたい、と思う。(中略)ただ、私は、くだらないことを延々と書くような小説を発表していきたい。弱い作家が弱い話を書くことが仕事になる幸せな時代を噛み締めたい。》

(平野)
 家族が読み終わって回してくれた。カバー、みつはしちかこ『チッチとサリー』。オッサンは自分で買う勇気ない。

2016年4月12日火曜日

わたしの木下杢太郎


 岩阪恵子 『わたしの木下杢太郎』 講談社 20159月刊 1800円+税

 木下杢太郎、本名太田正雄(18851945)、静岡県賀茂郡湯川村(現伊東市)の裕福な商家に生まれ、一高・東京帝国大学医科に学んだ医学者、文学者。絵を描き、キリシタン史研究もある。語学堪能。
 本書「はじめに」より。
 北原白秋、齋藤茂吉、石川啄木ら杢太郎と交遊のあった同時代の人たちは今も読まれているのに……、
《ではなぜ杢太郎は彼らほど人気がないのだろうか。思うに、彼の活発な文学活動はほぼ二十歳から三十歳までのもので、その後の彼の努力は専ら医学を中心としたものに向けられてしまったこと、生涯にわたって随筆や評論は書かれたが、文壇からは離れた存在であったこと、彼の書くものにはその奥に白秋、茂吉、啄木に劣らぬ抒情性があるが、それが知的に抑制されているため読者がたやすく入りこめずとりつきにくく感じること、医学以外の彼の興味が広汎にわたっており、それらに附き合うのがなかなか困難なことが挙げられるだろう。また一般的に言って破滅型や無頼派の文学者は人気がありがちだが、杢太郎のように大学の教授として破綻もなく一生を終えた人物は面白味に欠けると受けとられやすいのだろう。(後略)》

学生時代に与謝野寛の新詩社同人になり、同人誌・一般雑誌に詩、小説、評論を寄稿。森鷗外、上田敏、白秋らと親交する。1915(大正4)年、小説集『唐草表紙』(正確堂)を刊行、鷗外と夏目漱石が序文を書いた。それほどの人がなぜ文学ひとすじに進まなかったのか?
 医学者としても皮膚学の分野で業績を残している。ハンセン病研究にも情熱を注いでいたが、戦争激化で中断。
 広く「文明」についても考え、日本が西洋に追いつくために漢字制限や仮名遣い改訂など実用のみを追求する動きに異を唱えた。しかし、古典研究は東西問わず人類共通の財産であるという立場。
 昼は研究者、夜は芸術家という生活。文章を求められれば書いたし、本の装幀も引き受けている。
 岩阪は、杢太郎の高い学識と教養、豊かな芸術的感性、それに家庭的事情など、その生涯をたどっていく。杢太郎が真面目に60年を生きたことは間違いない。とても濃密な時間である。

鶴岡善久「もうひとりの木下杢太郎」(『図書』4月号)が杢太郎の東大病院在職時代の当直日誌『とのゐふくろ』を紹介している。本来実務のための報告・伝言用であろうが、杢太郎が書いているのは、
……そのほとんどが一口でいえば「遊び心」から出たものである。食事、買い物、行事、はては芸者の話題まであらゆる用件が記されている。》
 同僚や患者、宴会の様子などのスケッチ(戯画)もある。岩阪の描く杢太郎は大秀才で堅物のイメージだが、鶴岡によればユーモアもある人だった。

(平野)
 私も杢太郎のことは世間の人にあまり知られていないと思う。私は本屋新米時代に、岩波書店から全集や豪華な『百花譜』が出版されていたので名前だけは知っていた。兵庫県文学史本『環状彷徨』(宮崎修二朗、コーべブックス、1977年)で、神戸を訪れた医学生杢太郎が神戸の町について良い印象を持っていなかったことも。

2016年4月5日火曜日

おるもすと


 吉田篤弘 『おるもすと』 世田谷文学館 1600円(税込)

 世田谷文学館が開館20周年を記念して出版。クラフト・エヴィング商會による「金曜日の本」シリーズ第1弾。
 同文学館では318日から販売。45日から通販開始。
http://setabun.or.jp/index.html
 


 
 吉田が「この12年間、ずっと書きつづけて」、「この12年間、ずっと書けなかった」小説。

《もうほとんどなにもかも終えてしまったんじゃないかと僕は思う。間違っていたらごめんなさい。でも、そんな気がする。どうしてかと云うと、次にすることを思いつかないからだ。(後略)》

 路地の奥の崖っぷちの家に住む青年。崖の下は墓地。いっしょに住んでいた祖父が亡くなり一人暮らし。石炭を選り分ける仕事そしていて、そこでは「こうもり」と呼ばれている。なぜここにひとりで住んでいるのかと考えるが、お墓=「しるし」を眺めているうちに「大抵のことは忘れて」しまい、「複雑な何か」や「やきもきする気がかりなこと」「不安」も忘れてしまった。祖父が生きていたら街の暮らしにしがみついただろうと思う。

《そうした想像をすることは何より愉しい。ここでひとりで暮らしてきて、想像することくらい愉しいものはないと思う。出来れば、この愉しみだけは失わずにいたい。その他のほとんどのことは終えてしまったり忘れてしまったりしたけれど、わざと少し色を塗り残すみたいに、想像する思いだけは、手つかずのまま変わらないようにと願っている。》

「おるもすと」は「almost」。〈でぶのパン屋〉の主人らしい外国人が話しかけてきて、長々しゃべり、最後に「おるもすと」と付け足した。意味はわからない。墓地に新しい墓ができた。「しるし」が増えた。また最初から数え直さなければならない。

《もうほとんど何もかも終えてしまったというのに、どうしても自分はそれを終えることができない。》

 終わりがない、まだ先がある、つづく、「どうしても終えることができない」……、吉田は、《この先も「つづき」は考えてゆくつもりだ。》と書いている。

 

(平野)
 シロヤギさんが教えてくれた。『図書』4月号(岩波書店)連載の髙村薫さん「作家的覚書」に海文堂のことがちらっと出てくる。
 主題は民間船員を有事に予備自衛官にして活用する計画について。新聞記事は見た。



《ひと昔前には想像もできなかった、こんな無謀な計画が現実に防衛省で練られ、それがさらりと記事になる。テレビなどのメディアはどこも騒がず、こうして一つ、また一つタガが外れてゆくのを止める政治家もいない。(後略)》