2016年5月28日土曜日

海の聖童女


 一色次郎 『海の聖童女』 
『展望』196712月号(筑摩書房)に発表、同年同社から単行本。70年『青幻記・海の聖童女』(けいせい)、74年角川文庫版発行。
 一色次郎19191986)、鹿児島県沖永良部島生まれ、本名大屋典一、幼時兵庫県加古川市郊外の一色で育つ。21歳のとき上京、佐佐木茂索(小説家、編集者。戦後文藝春秋社長)に師事。終戦前後、西日本新聞東京支社勤務。1949(昭和24)年「冬の旅」で直木賞候補。67(昭和42)年「青幻記」で第3回太宰治賞受賞。「海の聖童女」は受賞第1作。ドキュメンタリー作品に『日本空襲記』(72年、文和書房)がある。

『海の聖童女』
 主人公の中釜内市も沖永良部島出身、神戸製鋼所の熟練工、灘区水道筋で妻と娘カナと暮らす。4565日の空襲で妻が家の下敷きになる。
……軍需工場だけでない。爆撃のたびに、貨車の引込線のある六つの突堤はもちろん、船舶も被害を受けた。そして、無差別爆撃で市街も灰になった。斜面の神戸は、マキを積上げたようなもので、南風の強い時刻に焼夷弾をばらまくと、神戸の町は、まるで、焚火のように、あっけなくぼうぼうと燃えた。そして、人が死んだ。》
 妻は内市とカナを逃がすため舌を噛む。
 内市はカナを連れて故郷に向かう。列車を乗り継いで815日に熊本市の川尻駅に着くが、線路は空襲で寸断、鹿児島まで歩く。闇ルートの舟に乗るが、暴風雨で船長も同乗者も海に投げ出され、父娘だけが何週間も漂流して無人島に漂着する。舟に食料・衣類などが残っていて、島の豊かな自然の恵みで暮らすことができる。苦労して火をおこし、海水から塩を取り、ソテツで味噌を作る。1年後、台湾人が上陸、日本語で話しかけられた。島は台湾の東に位置していた。横浜にいたことがある李さんが島の灯台官吏になる。内市は希望すれば帰国できたが、島に残る。李さんが病気で台湾に戻り、内市はカナと灯台を守ることにする。
 
 
 内市が戦争についてカナに語る。子どもの時のケガで右人差し指が曲がらず、徴兵検査丙種合格で兵隊には行っていない。自分は戦争に関係ない人間だと思っていた。無人島の暮らしでその誤りに気づく。

……なる程わしは戦場には、出んかった。敵というても、顔がちっとばっかし違うだけで、おなじ人間じゃが、その人間、わしとおなじように、女房子供のおる人間、或いは、くにに、親兄弟のおる人間を狙いうちにするようなことは、せんかった。が、よくよく、思案してみると、わしが、敵に向わんでも、わしがつくったものが、敵を、撃ちよる。これじゃ、何もならん、おなじことじゃ。》
 内市は軍艦のスクリューや砲身を製造していた。優秀な工員だった。自分は非戦闘員だが、つくった兵器が敵の命を奪う、自分は空襲で命を奪われる。
……武器をつくる者が、一人も、おらんようになれば、戦争は、自然に、やんでしまうわけじゃ。(中略)社長は当り前のこと、事務員から現場、食堂のめしもりおばさんまで、大なり小なり、戦争遂行に努力してるわけになる。これだから総力戦というのじゃろう。(後略)》
 カナも真剣に耳を傾けている。島では金がいらない、食べものは手に入る、空襲にびくつくことはない、戦争のない天国みたいな場所、戦争を仕掛ける者もいない、船が通っても手を振らない、と。
 一色もあの815日鹿児島本線宇土駅まで歩いたが、故郷には行けなかった。日記に当日出会った父子連れのことを書いている。一色が声をかけても父子は反応しない。眠りながら歩いている。一色は小説を書くにあたって、自分があの父になり子どもの手を引こうと思った。
《今度は、どんなことがあっても、歩きつづけよう。かならず、カナをまもり抜こう。原稿生活約二十年、失職状態そっくりのなかで、家族を護り抜いた執念をこめて、この作品を書抜こう。私は書きはじめた。》
(平野)
 オランダ旅行者のおみやげ。マーストリヒトの本屋さん「ドミニカネン」の栞。「世界で最も美しい本屋」のひとつ。