2016年6月28日火曜日

そして


 『そして 谷川俊太郎自選詩集』 下田昌克絵 銀の鈴社 
 1600円+税
 
「子どもにもわかる言葉で真実の世界をうたう個人詩集のシリーズ」
 谷川は1980年にこのシリーズで『地球へのピクニック』を出している。それ以降の谷川の詩集から11篇選ぶ。

「まえがき」より。
《詩が読みたくなるとき、詩が書きたくなるとき、私たちは日々の生活で感じている苦しいこと、悲しいことを心の中にためこんでおかないで、言葉で解放しよう、言葉で美しいもの、楽しいものに変換しようとしているのではないでしょうか。(略)》

 詩人は子どもたちが「たとえひとつでも好きな詩」に出会えることを願っている。 
 下田がえんぴつで描く絵は全ページつながる。


(平野)
 627日朝日新聞「朝日歌壇」入選歌から。
 いますこし本屋を続けゐたきかな本が紙にて刷られるうちは 
(長野県)沓掛喜久男さん

 

2016年6月26日日曜日

休暇帰還兵


 足立巻一 『戦死ヤアワレ 無名兵士の記録』 新潮社 1982年刊

 1945年足立は鹿児島に配属されていた。6月早々、本土決戦に備えて910日の帰郷外泊許可が出た。「妻帯将兵に子種」をつけさせる意味もあった。足立の家族は317日の空襲後岡山県に疎開している。列車は何度もB29に襲われ、岡山まで3昼夜かかる。疎開先に着くと、妻は神戸の実家に。足立も向かう。須磨駅に立つ、一面焼け野原。

《その日は六月六日で前日の白昼、三百五〇機のB29が二十数編隊で来襲し、神戸市街はほとんど焼けつくしていたのである。》

 市電が寸断されていて、須磨から妻の実家まで歩く。3月と前日の空襲の様子を聞く。

《三月十七日の夜は、霰をともなった強い北風が吹き荒れていた。午前二時五分、B29一機が侵入し、照明弾を投げて去ったかと思うと、町は真昼のように明るくなった。と、それを目標に六十機以上の編隊が殺到し、焼夷弾と小型爆弾による無差別絨緞攻撃を三時間にわたってつづけた。海港都市は火炎の町と化した。》

 妻と2歳の娘と母は兵士が警備する防空壕に入った。避難してきた住民でいっぱいだった。幼い娘は泣かなかった。

《空襲警報が解除されて防空壕から出たとき、空は赤く焼けただれ、あたりはすべて瓦礫であった。当然、家は焼けたものと思われた。
 母と妻は瓦礫の国道を放心してただ歩いた。道ばたには死体がボロのようにころがっている。》

 足立は須磨駅まで荷物を運び、妻を先に岡山に帰す。勤務していた学校に寄り、須磨の自宅跡にも行った。

《住みなれたあたりは、一面の荒地に変わっていた。付近には大きな構えの旧家が多かったが、土蔵だけを残して消えている。家族は土蔵のなかに住んでいるらしい。
 家のあとに立った。壁土が積もり、割れた瓦が散乱している。便所の肥壺だけが、ぽっこりくぼんでいる。焼け跡はひどく狭く見えて、こんなところに長年住んでいたのかとふしぎな気がした。》

 翌朝足立は岡山に戻るが、すぐに帰隊しなければならない。休暇で空襲に遭い、妻と過ごしたのは神戸と岡山二晩だけだった。

(平野)

2016年6月25日土曜日

防火用水槽



 豊田和子 『記憶のなかの神戸 私の育ったまちと戦争』 
シーズプランニング 1800円+税 2007年刊

 戦時下の下町の暮らしを描く画文集。
 豊田和子は1929(昭和4)年神戸市生まれ、81年から仏画を描く。45317日の空襲時は高等女学校3年生、病気で工場動員に出られず学校居残り組、教師や同級生から非国民扱いだった。警察から空襲警報発令の場合は救護班として出動するよう命じられていた。住まいは湊東区上橘通(そうとうく・かみたちばなどおり、現在兵庫区西上橘通)、湊川神社と福原遊郭の間の商店街。17日未明警報のサイレン、救護どころではない。空地(強制疎開させられた家の跡地)へ逃げるが、そこに焼夷弾が落ちてくる。家に戻る。

《「危ない」と母が叫んだ。私の足の踵のすぐうしろに焼夷弾が落下し、地面につきささった。その途端に私の体は飛び上がり、体内から口へ、青い火が通り抜けたような衝撃を覚えた。》

 焼夷弾は家の屋根をつき破り食卓を割り床で燃えている。隣の人がバケツを持って来てくれたが何の役にも立たない。表通りからも裏通りからも火が噴き出している。東の湊川神社に向かうが、北からも南からも人が逃げて来て、人であふれている。神戸駅に行くことにする。四方八方火に囲まれ、和子の防空頭巾もリュックも燃えている。髪の毛がパチパチと音を立てている。母が防火用水槽を見つけ、家族で飛び込んだ。

……一畳ぐらいの広さの水槽に身を沈め、父が鉄兜に水を汲んでは頭にかけてくれた。目を開けると火の粉で目の玉が焼けるのでじっと目を閉じていた。息を吸えば煙ばかりが入ってくる。息が苦しくて苦しくて咽ってしまう。「泣いたらあかん」と、父が言うが泣いているのではない。息ができないのだ。》

 悲鳴が聞こえる。何人も水槽に飛び込んでくる。

《火は風を呼ぶというが、ものすごい風の音と、ごうごうと燃えさかる火の音を、ただじっと目を閉じて聞いていた。ひときわすさまじい風の音に、一瞬目を開けた時、頭の上をミシンとか家具が木の葉のように飛んでいた。その火の中を悲痛な叫び声を上げながら逃げまどうひとたち、それは地獄絵そのものだった。》

赤ちゃんを背負った女の人がいた。モンペも赤ちゃんも燃えている。

……丁度、私の前に親子が入ってきた。おんぶされた赤ん坊の背中が、私の胸のあたりにぴったりくっついていた。ヒーヒーとか細い声で、赤ちゃんは泣いていた。その声がだんだん弱くなり、やがて聞こえなくなった。》

 B29の爆音、焼夷弾の音、人びとが唱える念仏……、和子は意識を失う。夜が明ける。水槽の水がなくなっていた。あの母親が水槽から出て歩き出すが、背中の赤ちゃんが死んでいるのに気づいていないだろう。和子たちもふらふら。リュックを地面におろしたとたん、男が奪って行った。
 空襲から10日後、和子らの学年は繰り上げ卒業。家族で六甲の祖父宅に移る。そこは6月空襲でも無事だったが、86日に焼けた。親戚宅も焼け、父の職場の世話で神戸電鉄沿線の五社に引っ越す。終戦は3日遅れの新聞で知った。

《戦争が終わった。長くつらかった戦争がやっと終わった。それが一番先に頭に浮んだ正直な気持ちだった。
 日本が戦争に負けたことを悲しく思うより、やっと戦争が終わったというなんともいえない解放感の方が大きかった。これからこの国がどうなっていくのか、私たちの生活がどうなっていくのか、不安はいっぱいあったけれど、とにかく、これで空襲がなくなるという安堵の気持ちが大きかった。》

(平野)

2016年6月23日木曜日

荒ぶる自然


 高田宏 『荒ぶる自然 日本列島天変地異録』 苦楽堂 
1800円+税

 1997年新潮社から出版された本を復刻。95年雑誌『プレジデント』連載当時、苦楽堂社主が担当していたという縁。
 高田宏(19322015)、京都生まれ石川県育ち、作家。光文社『少女』編集時代に災害被災地を取材。著書に『言葉の海へ』『木に会う』(共に新潮社)など。
 高田は高校時代に福井地震に遭っている。いつか災害と人間の歴史を書くつもりだった。連載直前に阪神淡路大震災が起き、半年延期した。
「阪神大震災の章は立てなかった。六千数百人の御霊に合学するのみである」
 高田は大災害被災地を訪ね歩く。豊かで巨大な自然の力、自然に寄り添う人間の暮らし、悲惨な被害の記録と記憶、災害から得た教訓と知恵を言葉にする。犠牲者を弔う。その自然と共に生きることを選んだ人たちの姿・勁さを書く。
 取り上げるのは、福井地震(1948年)、浅間山天明大噴火(1783年)、伊勢湾台風(1959年)、天竜川三六災害(1961年)、有珠山噴火(1977年)、狩野川台風(1958年)、三八豪雪(1963年)、伊豆大島噴火(1986年)、三陸沿岸大津波(1896年、1933年)、桜島大正噴火(1914年)、室戸台風(1934年、61年)、下北ヤマセ冷害(1993年)。

「はじめに」より。
《日本列島は山岳列島である。火山列島でもある。それゆえに森林列島であり河川列島である。(中略)複雑な大地が複雑な気候と共に、千変万化する風景をこの列島は生み出してきた。それが、日本列島の自然の豊かさだ。そして、その自然がぼくたちを生かし、ぼくたちの心を養ってきた。》
《豊かな自然は動く自然だ。動きが大きいとき、自然の力がぼくたちにとって恐ろしいものとなる。(中略)
 だが、それなら動かない自然がいいかと聞かれたら、それは嫌だと思う。山がなく、森がなく、川がなく、ただ静かで平らな大地がひろがるだけのところには、ぼくは暮らしたくない。
 日本列島の荒ぶる自然がこれまで多くの人の生命を奪ってきた。家々を壊し、田畑を荒らしてもきた。たくさんの悲しみを生んできた。それは辛いことだ。だがぼくたち日本列島に生きる者を鍛えてもきた。地震、噴火、台風、水害、雪崩、津波といった荒ぶる自然の歴史は、その自然に鍛えられてきた人間の歴史をも見せている。荒ぶる自然はしばしば美しい人間の母胎であった。》

(平野)
 祖母は毎晩寝る前にバケツに水を汲み置きしていた。阪神淡路大震災のとき、私はその行動の意味がようやくわかった。中学生の時に水害で床下浸水の濁流に驚いた、怖かった。阪神大水害を知る祖父母父母は慌てなかった。皆空襲も経験している。本屋のお客さんが伊勢湾台風の話をしてくれた。人生の歯車がはずれた。家業(土建業)を継いで間もなく、手配していた資材が全部流されて大借金。家業は細々と続け、自分は他社に勤めて借金を返済したと言う。

 本屋新米の頃、高田宏は石油会社のPR誌『エナジー』の編集者として著名だった。その雑誌を読んだことはないが、他の雑誌にもよく登場していた。数年前、辞書編集お仕事小説を読んでいる人に、私は『言葉の海へ』を教えた。「こっちやろー!」。大きなお世話大きな迷惑?

2016年6月19日日曜日

山之口貘詩集


 高良勉編 『山之口貘詩集』 岩波文庫 640円+税

 岩波文庫が近現代詩集を出してくれていて、ありがたい、うれしい。
 山之口貘については当ブログで何度か紹介している。
 1903年沖縄県那覇区生まれ、63年胃ガンのため逝去。貧乏詩人、放浪詩人と呼ばれ、詩人仲間に愛された。底辺を体験した視点からわかりやすい言葉でユーモアいっぱいに、社会の常識を風刺し家庭生活を送り沖縄を思って詠った。1つの詩に100枚、200枚の推敲を重ね、深く考えた。
 
「世はさまざま」
人は米を食っている
ぼくの名とおなじ名の
貘という獣は
夢を食うという
羊は紙を食い
南京虫は血を吸いにくる
人にはまた
人を食いに来る人や人を食いに出掛ける人もある
そうかとおもうと琉球には
まあ木という木がある
木としての器量はよくないが詩人みたいな木なんだ
いつも墓場に立っていて
そこに来ては泣きくずれる
かなしい声や涙で育つという
まあ木という風変わりな木もある
 
 高良勉(たから・べん)は1949年沖縄県生まれ、詩人、沖縄大学客員教授。84年、『岬』(海風社)で第7回山之口貘賞受賞。高校教師を経て沖縄文化・歴史研究。
《貧乏をも笑い飛ばした貘の詩は、物質的な豊かさ中心の思考法で行き詰まり、貧富の差も拡大していく現代にあって、現実に屈服しない明るい勇気を与えてくれる。貘の厳しい推敲から生れた平易な表現の詩は、読者に大きく開かれている。》
(平野)
「ある家庭」という詩。夫人が愚痴る。ラジオもテレビもストーブも……も、何にもない、こんな家いまどきどこにもない、と。
……/亭主はそこで口をつぐみ/あたりを見廻したりしているのだが/こんな家でも女房が文化的なので/ないものにかわって/なにかと間に合っているのだ》
 文化的女房。

2016年6月14日火曜日

まっ直に本を売る


 石橋毅史 『まっ()に本を売る ラディカルな出版「直取引」の方法』 苦楽堂 1800円+税
 

『これからの本屋』(書肆汽水域)、『HAB Vol.2 本と流通』(H.A Bookstore)など本の販売流通に関する出版が続いている。ちょっと前なら〈業界本〉で地味に本棚に並んでいたジャンル。新刊本屋・古書店が積極的に販売してはる。業界は「出版不況」と言われ、出版社や本屋が廃業し、取次会社まで倒産する。一方でアマゾンなどネット販売の力は大きくなっている。書店員の労働条件は厳しい。でも、個人で出版や本屋を始めたい人が多くいる。
 本書は2001年に創業した出版社〈トランスビュー〉に取材、その理念と方法を詳しく紹介する。「直取引」という方式。創業以来23人の人員で続けてきた。主に人文・社会系の本を出版、2003年池田晶子『14歳からの哲学』がベストセラーになり、現在も増刷している。
 流通の卸し問屋を出版業界では取次会社と言い、出版社の本を全国の本屋に送る、返品を出版社に返す、その物流とお金の精算を受け持つ。取次会社が数多くの本と雑誌を毎日全国の本屋に届けている。重要な役割を果しているとともに、その分とても大きな力を持っている。物流と金融を支配していると言える。業界の慣習もあって、老舗・大手出版社が有利で新しい出版社の参入が難しい、小さな本屋や地方の本屋に売れ行き良好書が入りにくい、また個人経営本屋の新規取り引きについて金銭的負担が大きい、などの問題がある。注文品入荷が遅い、希望数が入らない、送品返品過剰など業界の問題点をすべて押し付けられているような立場でもある。
〈トランスビュー〉は基本的に取次会社を通さず本屋に直接納品し、精算する。本屋の利益を増やすことを第一に考えている。当初70%卸しだったが、現在は68%。取次会社経由(おおよそ78%くらい、個別の取り引き条件がいろいろある)よりも安く卸す、本屋が希望する部数を納品する、注文はすぐに出荷する、もちろん返品可能。送料は出荷・返品それぞれ元払い。本屋は経費削減で返品を抑える、ということは当然注文部数を慎重に考える。売れたらまた注文すればよい。業界の返品率は30%後半から40%(これを超えることもしばしば)だが、〈トランスビュー〉は10%台。
 新しく出版社を志す人、本屋を開きたい人に、こんなやり方もある、という紹介。また、〈トランスビュー〉は他の出版社の「取引代行」業務も行っている。受注、流通、精算業務を請け負い、その実費をもらう。本書の出版元〈苦楽堂〉もこの方式を使っている。
 業界には元々「直」の出版社があるし、〈トランスビュー〉方式にならっている出版社もある。既存の出版社でも「直」取引をしてくれるところもある(条件はさまざま)。本屋も「直」中心でしいれている店もある。取り引き条件が悪くても「直」で新本を仕入れる古本屋もある。これからも出版・流通・販売で新しいやり方が生まれるかもしれない。本を作ること、売ることに情熱を傾けて努力している人たちがいる。
 著者は1970年東京生まれ。出版社営業マン、業界新聞編集者を経て、フリーライター。著書に、『「本屋」は死なない』(新潮社)、『口笛を吹きながら本を売る――柴田信、最終授業』(晶文社)。自身の経験を織りまぜて出版流通・販売について考える。

 装幀 原拓郎  装画 吉野有里子
(平野) 
 海文堂は「直」を積極的にしていた。元々海事書は専門的すぎて少部数出版、販売条件は昔から高正味・買い切りながら、確実に売れる分野。海文堂にしかない、ということが「売り」になる。

2016年6月12日日曜日

村に火をつけ、白痴になれ


 栗原康 『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』 岩波書店 
1800円+税

 伊藤野枝(18951923)福岡県生まれ。辻潤、大杉栄との関係をスキャンダラスに取り上げられることが多いが、本書は野枝の執筆活動を中心に、彼女の思想・行動に焦点をあてる。結婚、性、売買春など社会道徳にペンで立ち向かった。

目次
はじめに  あの淫乱女! 淫乱女!/野枝のたたりじゃあ!/もはやジェンダーはない、あるのはセックスそれだけだ
第一章      貧乏に徹し、わがままに生きろ  お父さんははたらきません/わたしは読書が好きだ (略)
第二章      夜逃げの哲学  西洋乞食、あらわれる/わたし、海賊になる/ど根性でセックスだ (略)
第三章      ひとのセックスを笑うな  青鞜社の庭にウンコをばら撒く/レッド・エマ/野枝の料理はまずくて汚い? (略)
第四章      ひとつになっても、ひとつになれないよ  マツタケをください/すごい、すごい、オレすごい (略)
第五章      無政府は事実だ  野枝、大暴れ/どうせ希望がないならば、なんでも好き勝手にやってやる (略)
あとがき  いざとなったら、太陽を喰らえ/はじめに行為ありき、やっちまいな

 目次をざっと書き出したが、これで著者の文章の調子がわかっていただけるか。岩波が本書を出すことが面白い。それでもやはり、大杉栄、野枝、甥宗一の最期は辛い、酷い。
 著者は1979年埼玉県生まれ、東北芸術工科大学非常勤講師、専門はアナキズム研究。『大杉栄伝――永遠のアナキズム』(夜光社)、『はたらかないで、たらふく食べたい――「生の負債」からの解放宣言』(タバブックス)など。

〈あとがき〉では著者自身の近況を書いて、野枝のことに。
……いざとなったら、なんとでもなる。おさないころから、そういう実感をもっていた。なにがなんでも、好きなことをやってやる。本がよみたい、勉強がしたい、文章をかきたい、もっとおもしろいことを、もっとするどいことを。それをやらせてくれるパトロンを、友人を、恋人をじゃんじゃんつくる。代準介、辻潤、平塚らいてう、大杉栄などなど。恋人だってほしいし、セックスだってたのしみたい。子どもだってつくってやる。うまいものをたらふく食べることだって、あきらめない。これすごいのは、ふつうどれかひとつやったら、どれかをあきらめざるをえなくなったりするのだが、野枝はちがうということだ。ぜんぶやる。欲望全開だ。稼ぎがあるかどうかなんて関係ない。友人でも親せきでも、たよれるものはなんでもたよって、なんの臆面もなく好きなことをやってしまう。わがまま、友情、夢、おカネ。きっと、この優先順位がしっかりとわかっていたひとなんだとおもう。》

 書名は、野枝の小説、「白痴の母」(障害のある息子を持つ母親の悲惨な死)、「火つけ彦一」(被差別部落青年の復讐)から。
(平野)
 612日「朝日新聞」読書欄で、北田博充『これからの本屋』(書肆汽水域)紹介。

2016年6月11日土曜日

出奔者と空襲


 西東三鬼 『神戸 続神戸 俳愚伝』 
講談社文芸文庫 20005月刊 
 底本は75年出帆社刊。「神戸」は54年『俳句』(角川書店)に連載。
 三鬼は1942(昭和17)年に「東京のすべてから遁走して神戸に来た」。不倫相手の妊娠・出産、三鬼本人の重病、そして、所属していた「京大俳句」が治安維持法違反により、三鬼も検挙・拘留された。三鬼は歯科医を辞めて貿易会社に勤めていたが、その仕事も辞め、家庭を捨て、神戸に流れてきた。三鬼42歳。住まいはトアロードの「トーア・アパート・ホテル」(中山手通2丁目)。仕事は軍需産業のブローカー。貿易会社からのつながりだろう。
 本書は、ホテルに長期滞在している奇妙で愉快で、でも善良な外国人たち女性たちとの交流を語るもの。三鬼は「センセイ」と呼ばれた。
 三鬼は神戸にも空襲が来ることは確実と思い、山手にも部屋を確保していたが、ホテルに住んでいた。住人たちとの生活が楽しかった。しかし、43年の夏、おんぼろ異人館(山本通4丁目)に引っ越す。海水浴から戻って近所の銭湯でのこと、いろいろな言語が反響している。

……素ッ裸の異国人達は、彼らの頭上から火の海が降る日が近づいているのに、正々、堂々としていた。その中に、我々二、三人の日本人だけが、タオルで大切に前をかくしてウロウロしていた。》
 三鬼は思う。
……この隣人たちは、いざという時一発の焼夷弾も消さないだろう事を、今更はっきり見てしまった。》

 同居人は同棲相手波子と犬、猫ほか小動物たち。花壇を畑にし、防空壕を作る。この家は戦後「三鬼館」と名付けられる。

《私の予想した通り、三鬼館に移転して間もなく、神戸は二回の空襲で焦土と化したが、私の化物屋敷は焼け残った。
 ホテルは、これも私の予想通り、焼夷弾の雨の下で、またたく間に灰になったが、土蔵だけが焼け残った。そしてその中には、ホテルの持主が逃げる時に閉じ込めた、十数匹の猫が、扉の内側に山になって死んでいた、ということである。
 焼けるホテルから逃げ出した酒場のマダム達は、思い思いの手廻品をぶらさげて、十数人がドッと三鬼館になだれ込んだので、私は再び、奇妙なホテルの再現の中に暮すことになったのである。》

 住人たちの食料は、三鬼の畑の馬鈴薯、エジプト人「マジット氏」が「どこからか拾って来る、丸焼けの鶏」。乳児のために「中国人椅子直し君」が空襲で赤ちゃんを亡くした「中国婦人」を連れて来た。避難者たちは12ヵ月で「殆ど落ちつく所」へ落ちついて、23人が残った。
 三鬼はホテルである娘に英語を教えていた。空襲の日、三鬼は彼女を捜した。

《私はまだ燃え盛る街の、路上に垂れた電線を飛び越え飛び越え、彼女の家へ走った。
 彼女の路地の前の空地は、スリバチ形の防火池になっていた。その池のコンクリートの縁に、隙間もなく溺死体が並べてあった。
 そこまで来る路上で、すでに私は多くの焼死体を見たのだが、少しも焼けたところのない、溺死体の姿は、周囲がまだ燃え盛っているだけに、むごたらしくて正視出来なかったが、もしやと思って池の縁を廻っているうちに、見覚えの夏服を着た、溺死体を発見した。(中略、彼女は弟を抱き、腕に波子にもらったバッグ)
 そこまで見届けた私は、元来た道を一目散に走った。
 途中で一度嘔吐した。
 防火池をめぐる、生き残った者の号泣が、いつまでもうしろに聞えた。(後略)》

 西東三鬼19001962、本名・斎藤敬直)、岡山県苫田郡津山町(現在津山市)生まれ。俳句は病院歯科部長時代に患者さんに勧められて始めた。仲間に作品をプリントするから俳号をこしらえろと言われ、「即座にでたらめで、三鬼と答えた」。津山市のWEBサイトでは「サンキューのもじり」とある。連作、無季、リアリズムを詠む新しい俳句運動に参加。
  昇降機しづかに雷の夜を昇る
 特高警察は、「昇降機」を共産主義を表わして同志の闘争意識を高めたもの、と解釈した。戦争を題材にした句もある。

(平野)

2016年6月9日木曜日

浦島太郎直系争い

 神戸空襲、休憩。ネタ切れか。

■ 井伏鱒二『七つの街道』1964年、新潮文庫。『別冊文藝春秋』5657年連載、57年文藝春秋から単行本)の「ささやま街道」に「浦島太郎」直系争いの話が出てきた。
 井伏の古い友人である編集氏、丹波篠山出身。
《その男が言うことに「自分は丹波篠山の山家の生まれで、浦島太郎の直系の子孫である。ところが、自分の分家のうちでも、俺の方こそ浦島太郎の直系だと言って、本家と分家が直系争いをつづけていた。もう何百年も前からその争いが続いていて、本家と分家は同じ村にありながら、お互に口もきかない不仲になっていた。しかるに、本家の生れである自分の父親が、まだ父親となる前の弱年のとき、ふとしたことから分家の娘と別(わり)ない仲になった。これには分家の老父母も、本家の老父母も肝を消した。何代も前の昔から、直系争いをして来た不倶戴天の仲である。しかし恋する男女というものは、恋のためには、家名にも黄金にも、親のいさめにも目をくれぬ。恋する二人は、親の激怒を物ともせず家をとび出して世帯を持った。すなわち、その二人の間に生れたのが僕という人間だ。」と、彼は身の素姓を打ちあけて「これは絶対に秘密だぞ。」と言った。》
 井伏の印象は、先祖代々の深刻な大問題なのに「浦島太郎」はユーモラスということと、話がうますぎて丹波にはこんな民話・伝説が語り継がれているのだろうかということ。同行の地元郷土史研究者(海文堂顧客氏の名がある)に聞きそびれている。
 伝説は今も受け継がれているのだろうか。丹波出身者に聞かねばならない。

■ 三浦佑之『風土記の世界』 岩波新書 840円+税 2016.4月刊
 日本書紀に浦島太郎の話が出てくるそう。丹波国余社郡(たにはのくに よざのこほり)の「浦島子」が亀を釣り、その亀が女性に変身して一緒に蓬莱山に行く。丹波は山国だが、古代「丹波国」は丹後も含んでいた。「余社郡」は若狭湾に面する。古代「丹波国」は713年に丹波と丹後に分国された。日本書紀「浦島子」記事はそれ以前に書かれたことになる。

日本書紀(720年成立)には「浦島子」の物語が「別巻に在り」とも書かれているが、その「別巻」は現存しないというか、作られていない。このことから著者は、ヤマト王権正史編纂者は「浦島子」を別の史書にも登場させる予定だったのではないかと、正史編纂構想を検証する。その構想は頓挫したが、別の形で「風土記」編纂につながったと考える。  
 現存する「風土記」は5国で、他に後世の文献に引用されている「逸文」があるだけ。本書はその「風土記」に描かれた古代日本を紹介する。ヤマトタケル伝承や神々の滑稽話など、「古事記」「日本書紀」とは違う多彩で豊かな地方の姿がある。著者は、現存しない多くの国の「風土記」のことを想像する。「まぼろしの風土記」。
《まぼろしの風土記からは、遺された風土記と同様に、中央であるヤマトに包み込まれてしまいそうな地方の姿と、それに抗い続ける固有の姿と、その二つが見いだせるだろう。そしてそこから浮かび上がるのは、「ひとつの日本」に括られる途中の日本列島の姿である。(後略)》
「丹波国風土記」「丹後国風土記」も現存しないが、『釈日本紀』(鎌倉時代末期成立)に「丹後国風土記」の記事の一部と考えられる資料があり、「浦島子」の物語が載せられているそうだ。
(平野)

2016年6月7日火曜日

日本空襲記


 一色次郎 『日本空襲記』 文和書房 1972(昭和47)年6

 1944(昭和19)年54日から45821日まで、空襲の記録を中心にした克明な日記。大学ノート11冊分。各種通帳、兵器工場の資料、米軍が撒いた謀略伝単など資料多数 
 日記は、妻の通院から始まる。一色は幼いときから家族との縁が薄く、妻を「はじめてできた家族、といってもよい……」と書く。短期間しか住んでいない沖永良部島の自然にも育った鹿児島の文明にも警戒心を持ち、それらを拒絶する「怯えやすい心」をもっていた。この日記も不安な心で書きはじめた。妻の退院で少し中断している。空襲を記録するとは考えていなかった。
 一色は37(昭和12)年4月上京、42年結婚、妻カノコ(仮名)。文筆生活を志すがうまくいかず、工場勤め。徴用令(軍事産業などで働く者の移動が禁止)で工場を辞めることができない。医師が神経衰弱の診断書を書いてくれた。興亜日本社(海軍の慰問雑誌『戦線文庫』)、みたみ出版(児童雑誌『少国民文学』)を経て、西日本新聞社東京支社勤務。
 89日、福岡本社で会議のため東京駅出発、この時期に新しい雑誌を出す予定があった。10日大阪駅で乗り換え。神戸の様子。

《神戸も、山の手を一部残してそっくり焼けている。その黒い地面がだらだら傾いた下の海に、航空母艦がうかんでいる。外形は破損しているようでもないが、一隻の護衛艦もなくポツンとひとりで泊まっている。むかし、銀座の自動車を見るように、びっしり船がうかんでいた神戸港に今は航空母艦のほか一隻の船も見えなかった。須磨の海まできて、ようやく、砂浜に、傾いた一隻の木造船を見た。子供が遊び場にしている。》

 11日、広島駅停車時間にホームを歩く。死臭が充満。学生から惨状を聞き、車窓から景色を見て、原子爆弾の威力に驚く。本社では、新聞も出版も停戦交渉がまとまるまで話が進まず、待機。一色は佐賀にいる祖母を訪ね、一旦福岡に戻り、鹿児島に向かう。

 当ブログで書いた「815日」の話、『海の聖童女』執筆きっかけのこと。
 鉄道は空襲で分断されていて、熊本県の川尻駅から徒歩。避難民の行列が続く。

《素足で歩いている親子がある。父親と七、八歳の女児だけだ。母親の姿は見えない。顔も手足も首すじも異様に黒く、反対に唇だけが、ふやけたように白くなっている。埃だけのよごれではない。煤けている。ほかの避難民にくらべると所持品も少なかった。風呂敷包みをひとつ、父親が腰に結わえているだけだ。(中略)
「どちらからですか。どこからきたのですか」
 ふたりへ声をかけたが、どちらも私を見ようとしなかった。父親も子供も、睡りながら歩いているのだった。》

 顔中包帯で長い竹を杖にして足をひきずっている者(性別不明)、老婆一人、布団を背負う者、鍋釜を下げている者、カサだけ持っている者……、宇土駅まで来て、出るかどうかわからない汽車を待つ。なんとかして、鹿児島に帰りたいと思う。桜島の姿を眺めたいと思う。しかし、リュックの食料も金も少なくなっているし、本社に戻らねばならない。鹿児島を離れて8年、鹿児島弁が使えなくなっている。せめて鹿児島の言葉を一言でも聞きたいと思う。行列の人たちは皆無言。一色は鹿児島行きをあきらめ、子ども連れに米をあげようと思う。

《どうして、こんなにも子供の姿が目につくのだろう。どうして、子供たちは睡りながらまだ歩けるのだろう。どうして、泣いてくれないのだろう。元気な声で唱歌をうたってくれないのだろう。どうして、子どもたちがこんなにされてしまったのだろう。私はわめきたくなった。
「失礼ですが、お米を上げます」
 ひとりの母親の胸に、米の袋を押しつけた。母親はおじぎをして米を抱くと、そのまま歩いていく。こじきではないのに、どうして、ひとことお礼を言ってくれないのだろう。私はその強い故郷のなまりを、聞きたかったのに!》

 一色は歩いてきた道を戻る。味噌の入った弁当箱を老人にあげ、着替えも本も捨てる。

『海の聖童女』は家族愛の物語。しかし、現実の一色は家族関係に恵まれていなかった。夫婦の間に子どもはいなかった。本書の最後で、48年に妻と別れたことを記している。

(平野)ほんまにWEBの連載3本それぞれ2回分一挙に更新。担当ゴローちゃん奮闘、って、さぼってた?
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