2016年6月4日土曜日

小松左京の空襲体験


 小松左京 『やぶれかぶれ青春記』 旺文社文庫 1975年刊 

69年『螢雪時代』連載。2年ほど前に当ブログで紹介した。空襲場面は兵庫の工場と西宮の自宅。
 1945(昭和20)年、小松は神戸一中3年生。これまで農作業、疎開家屋取り壊し、高射砲陣地づくりなどに動員されていたが、次は工場。週1回だった空襲が、次第にふえ、毎日になり、日に3回の日もあった。4月からの予定が5月末になった。動員先は造船所、空襲で破壊されている建物があり、熱気とホコリと騒音。既に45年生も働いていた。
《そんな工場へ、連夜の空襲で寝不足と疲労でフラフラになり、一日わずか五勺の外米と、虫クイ大豆や虫食いトウモロコシ、ドングリの粉などで、すっかりやせおとろえ、おまけに消化の悪い煎り豆を食べては水をのむので、大半がピイピイ腹下しでフラフラの私たち三年生が到着した。》
 支給される弁当が唯一の楽しみ。昼飯前に空襲警報が鳴ることがある。「すきっ腹でもつれる脚をひきずって大急ぎでとび出して行く」。避難場所は2キロ北の山。
《たいていは目的地につくまでに、カンカン、カンと、非常退避の半鐘がなり出し、青く焼けただれた空の底が、うんうん唸り出す。と、――私たちがかつて砂をはこんだ陣地の高射砲が、ドカン、ドカンと、すきっぱらをゆするような音をたてはじめるのだった。しばらくして、ザァーッと空をゆすりあげるような音が頭上をおおう。絨緞爆撃でいっせいに投下される、何千本もの焼夷弾、爆弾が空気を切る音なのだ。ふってくる焼夷弾が、空にまかれた千万の針のようにキラキラ光ってみえる。思うまもなく、ポンポン、パンパン、あたりは破裂音につつまれ、合い間にドスン、ドスンと、これは半トン、一トンの爆弾で、これが爆発したときは、青い大気の中を、池の面を走る波紋のように、衝撃波が、水紋よりももっと早く雲をゆすってパッと空にひろがってゆくのが見えた。衝撃波が眼に見えるということを、そのとき知った。》
 空襲が終われば、また工場に帰らなければならない。工場が焼けて、「しめた!」と叫んでしまった級友が、職工頭に鉄パイプで殴られた。
《まったく、その焼け方は見事なもので、見あげるばかりの、雨天体操場のような工場が屋根スレートも、トタン、モルタルの壁もあとかたもなくぬけおち、鉄骨だけになったコンクリートの間に、青い、鉛のかたまったようなものがあって、それが窓ガラスのとけたものだと知ったとき、その高熱が肌で理解できたように思い、こんな所で逃げおくれ焼け死んだら、さぞかしあつうてかなわんやろな、と息をつめて考え、それがもうあかん、と思いながら、空襲警報のたびに、必死で鉛のように重い脚を動かす力となった。》
 空襲のあと、鉄道は止まる。家まで約20キロを5時間6時間かけて帰る。焼け跡の死体を見ても、栄養失調の身体と頭には「はあそうか、なるほど、ぐらいの反応しか起こらなかった」。玄関にへたりこみ、食事をして、着のみ着のままでひっくりかえる。
《……思うことといえば、明日電車が動いてなければ工場を休めるんだが、ということだけだがいまいましいことに、電車は翌朝になると手品のように動いているのだった。》

 自宅には焼夷弾が10数発落ちたが、焼け残った。エレクトロン焼夷弾のときは、大人たちと早めに消しとめた。油脂焼夷弾のときは小松しかおらず、一人で消した。
……玄関先におちた二発をぬれたむしろで消しとめ、軒下でもえはじめたのをひっつかんで裏の畠にほうり出し、軒びさしの一発を庭へはたきおとし、最後に二階の大屋根につきささってもえはじめたのを、のぼっていって火たたきの棒で道路へたたきおとした。(中略、近所を見に出る)焼夷弾の雨はもうやんでおり、かわりに周囲一面の大火事によって吹きおこるおそろしい熱風が、つむじをまいて灰と火の粉をたたきつけてきた。空は一面ぶあつい煙にとざされ、それが炎を反射してにぶく赤く光り、まわりはただごうごうとうなる、眼もあけていられないような熱い旋風だった。》
 焼夷弾は何十発も束ねられてケースに入れられ投下される。そのケースの羽根「モロトフのパン籠」という大きな鉄の円筒が小松の背中をかすめた。
……一足おくれていれば、むろんこちらはグシャグシャになってつぶれていたろう。だが、そのときは、そんな事を想像してふるえあがるゆとりはなく、天をあおいで、一つ舌打ちしただけだった。(後略)》

 小松は小学生のときから「ひどい近視」で、軍国少年不適格、中学に入ると「非国民」と罵倒された。戦中から戦後にかけて、経験したものは戦争と飢えと貧困。それでも小松の文章は明るい。
……若さの中には、はてしなく暗く、重っ苦しいものがある反面、それとおなじくらい底ぬけに明るく、軽く、強靭なものもふくまれている。(後略)》
(平野)