2016年10月8日土曜日

ハンセン病に向きあって


 木村聖哉 湯浅進 黒川創 
『鶴見俊輔さんの仕事(1) ハンセン病に向きあって』 
SURE 1500円+税

 今年424日、京都市の堺町画廊で開催されたトークイベントの記録。
 鶴見は昨年793歳で亡くなった。幅広い領域で活動し著作を残したが、文章に記録されていないこともある。鶴見と関係の深い人たちにそれらの活動を聴く。第1回目のテーマがハンセン病。鶴見は生涯にわたり思索し活動をしてきた。

 湯浅は1944年生まれ、同志社大学鶴見ゼミ生時代、ワークキャンプに参加、奈良にハンセン病快復者のための宿泊施設「交流(むすび)の家」を建設した。現在も理事長を勤める。
 木村は1940年生まれ、同じく鶴見ゼミだが、時期的に「交流の家」建設に関わっていない。建設後の集会やイベントを手伝い、ハンセン病者の著書『地面の底がぬけたんです』(1974年、思想の科学社)をもとにした一人芝居をプロデュースした。
 黒川は1961年生まれの作家。元『思想の科学』編集委員。

 鶴見とハンセン病の関わりは1946年に遡る。軽井沢にいた外国人にハンセン病者が見つかり、医師に頼まれて通訳をした。患者はトロチェフというロシア貴族末裔の少年。鶴見は『思想の科学』でハンセン病者の作品を取り上げ、療養施設にも通った。54年頃、施設でトロチェフと再会。63年鶴見が同志社教授時代、上京した際にトロチェフとYMCAで待ち合わせた。トロチェフは宿泊を拒否される。鶴見も抗議するが受け入れられず、トロチェフは別のホテルに泊まった。鶴見は夜行で京都に戻り、同志社の学生たちに前夜のことを語った。学生の一人がすぐに行動した。3ヵ月後、奈良の古神道教祖に交渉して土地を提供してもらい、ハンセン病快復者のための宿泊施設建設を決めてきた。地元との交渉などで4年かけて「交流の家」が完成した。
 鶴見はハンセン病施設で精神科医を勤めた神谷美恵子と幼なじみ。また、ある施設では小学生時代に知り合った人(当時大学生)に再会し、交際が始まった。『ハンセン病文学全集』全10巻(200210年、皓星社)編集にも参加している。
 問題を提起する師がいる。それに反応して行動を起こし、一生の仕事にしてしまう弟子たちがいる。

(平野)
ヨソサマのイベント
 平野の祇園さん縁日  

1016日(日) 神戸市兵庫区平野 祇園神社境内
http://g-ennichi.wixsite.com/hirano