2016年5月31日火曜日

かいしょ女


 武田繁太郎 『かいしょ女』 東京文芸社 1969

 商家のお家はんの物語。商売、夫婦愛、子どもとの確執。『月刊神戸っ子』に19662月号から連載した「兵庫の女」を改題。
 主人公まつをは広島の山村の生まれ。貧しい村で、女の子は年頃になると色街に売られてゆく。まつをは地主の家の手伝いでもらう駄賃を貯め、家出。明治31年、まつを15歳。東京を目指すが、汽車の中から見えた神戸の賑やかな町並みに惹かれて下車。兵庫の工場地帯に行く。紡績工場の人の良い守衛(広島の人だった)に頼んで保証人になってもらい、この工場に勤める。同僚・安福利市の真面目さを見込んで結婚。共働き、内職、倹約でコツコツ貯金。現金200円を持って兵庫界隈一の呉服商に飛び込み、商品を卸してもらう。店主は叩き上げで、まつをの人柄と才能を見抜いた。まつをは社宅の人たちに掛け売りをして業績を上げ、利市を退職させて店を構える。日露・ヨーロッパの戦争景気で商売は順調。
 まつを30歳のとき良治誕生。商売が忙しく育児は乳母任せ、利市は可愛がるが彼も忙しくなる。兵庫で指折りの繁盛店となり、利市は政治家の手伝いや大会社との取り引き交渉、地域の商店と百貨店建設計画などを担当する。しかし、過労で倒れ病死。まつをは落胆し酒を飲むようになり、ついに高血圧で半身不随状態。二人の番頭を独立させ、経営から手を引く。新事業は不動産と軍事産業への投資。
 大学生になった良治は母の事業を批判する。良治は応召、恋人がいるのだが、まつをは見合いを勧め、ますます母子の心は離れる。良治は恋人と将来を約束して戦地に向かう。戦地で神戸の空襲のことは聞いていた。無事生還して、まず恋人を訪ねるが、空襲で死亡。兵庫の生家に行く。
 女中おたかに案内されて母の最期の地で弔う。反発したまま出征したが、貧しさをバネに商売に打ち込まねばならなかった母を思う。悲しみが良治の胸にあふれてくる。
 神戸空襲場面。
 310日東京、12日名古屋、13日大阪、空襲は西に伸びてくる。16日は神戸という噂が広まる。ラジオが米軍大編隊来襲を告げる。
《淡路島から西神戸の上空に侵入した先頭の一機が、一条の照明弾を投げた。照明弾はゆっくりと尾をひきながら落下し、強烈な閃光を発すると、たちまち、闇にうずもれていた街々が、白昼のようにあざやかに浮びあがった。それが攻撃の合図のようであった。
 西の空から、ききなれたB29特有の鈍い爆音が、群れをなしてひびいてきた。海と山に囲まれて東西にながくのびた神戸の街は、まず、西神戸の山の手が、敵の第一波に襲われた。》
 作戦は巧妙で残忍。市民は街中が危険と考え、山手に避難していたが、B29はそこに焼夷弾を浴びせた。海岸に逃げると、第二波の焼夷弾。山手にも海にも逃げられず街中に押し寄せると、第三波攻撃。
B29の胴体から、束になった焼夷弾がつぎつぎと吐きだされると、それらは、幾十幾百もの火の筒になり、かさなりあったまま、音もきこえずに落下してくる。と、ふいに、気ぜわしい炸裂音とともに、暗い夜空にぱっと大輪の花火がひろがり、無数にとびちった筒が、ひとつひとつ火を吹きながら、街の屋並みに殺到していった。》
《道路といわず、民家といわず、隙間もないほどに襲いかかってきた焼夷弾は、火の玉になって、あたりを焼き尽すと、それらは、生きもののようにたがいに手を握りあい、炎の長い舌で地上を舐め、街全体が、もう紅蓮の炎そのものだった。》
 防空壕は煙と熱気で、多くの人が犠牲になる。攻撃は東に来て、工場密集地の和田岬、人家の多い御崎町も火の海。半身不随のまつをは女中のおたかに背負われるように脱出。通りは避難民でひしめいている。多くの人が焼死し、焼夷弾の直撃を受けた子どもがいる。まつをは全身火達磨。おたかが助けようとするが、まつをは厳しく叱る。
《「いや。こんなことしてたら、あんたも共倒れや。良治が帰ってきたら、わたしのことを、だれが良治に話してくれるんや。さあ、おたかはん、すぐ逃げるんや」》
 人の波に押され、炎に包まれ、二人は離ればなれになる。

 武田繁太郎19191986)、神戸市生まれ、神戸三中、早稲田大学独文科卒。51(昭和26)年上期から4期連続芥川賞候補。59年『芦屋夫人』が猥褻とされ発禁、以後マダム物で流行作家になる。ノンフィクション作品に『沈黙の四十年 引き揚げ女性強制中絶の記録』(1985年、中央公論社)がある。

(平野)『神戸空襲体験記』に紹介されている武田繁太郎の「炎上の街」は『かいしょ女』の一部だった。神戸の図書館にはなく、検索すると蔵書している公立図書館は数ヵ所だけ。ダメモトで神戸文学館に行ってみた。ここになければ国会図書館に行くしかない。果たして……、ありました、読めました。『神戸っ子』WEBのアーカイブでも可能。
 みずのわ出版の『書影の森 筑摩書房の装幀 1940-2014』が造本装幀コンクールで日本書籍出版協会理事長賞受賞決定。装幀は林哲夫さん。https://www.facebook.com/Mizunowashuppan

2016年5月29日日曜日

灰色の記憶


 久坂葉子 『灰色の記憶』
 1952(昭和278月『VIKING』に発表。『久坂葉子作品集 女』(1978年、六興出版)、『幾度目かの最期』(2005年、講談社文芸文庫)所収。自伝的作品。
 44(昭和19)年夏、「私」は女学校でラジオの情報を聞いて報告する係。警報があったが、防空壕に入らず一人運動場を駆けぬけ裏山に逃げる。死の恐怖と死に対する衝動を語る。翌45年早々、女性教師と登校途中に警報があって近くの防空壕に入った。どちらも空襲そのものについては言及されていない。
 455月、動員された工場でのこと。

《空襲警報がなると、十分間走って山の壕まで行った。五月のよく晴れた日、工場地帯を爆撃された。山の壕でもかなりひどいショックを受けた。私は壕から十米もはなれた小さな神社の社務所でラジオをきいて、メガホンで報知していた。しかし、頭上に爆撃をうけているのだから報知する必要はないのである。それにすぐラジオは切れてしまった。主任教師は大きな木にかじりついてふるえていた。あの恐ろしく強がりな彼がまあ何と不恰好なと、もう一人の報道係と苦笑した。しかしその女の子も恐しいと云って壕へかけて行った。私は仕方なく、ガラスがふきとんで危いので、草原の庭へ出て、寐ころんで本をよみ出した。私には、空襲や爆撃は恐しくはなく、それより自分の罪に対する罰の方が恐しかったのである。(中略)空襲はおさまり、時々、破裂音がお腹の皮をよじり、生徒の泣き声がしていた。(後略)》

教師に叱責され、本は没収。「私」は死を意識し、生きることの意味を考えていた。生きていることを罪、苦悩を罰だと考えた。
 6月夜の空襲で山手の家が焼ける。

《物干台へ出て、父と二人で市内の焼けてゆくものをみていた。それは全く壮観であった。ざあっという音と共に、殆ど飛ぶように階下へ降りた。もうあたりは火になっていた。足許で炸裂する焼夷弾の不気味な色や音。弟と女中と姉と私は、廊下を行ったり来たりした。母は祭壇の中の、みてはならないものとしてある金色の錦の袋をもっていた。父は悄然とたっていた。(中略、消火をあきらめ表通りに出る。朝、一旦親戚宅に避難、夕方戻る)焼土はまだくすぼっていた。父は執事や叔父達と其処で後始末の打合せをしていた。金庫が一つ横だおれになっていた。ピアノの鉄の棒が、ぐにゃりまがって細い鉄線がぶつぶつ切れになっていたし、電蓄も、電蓄だと解らぬ位に残骸のみにくさを呈していた。本の頁が、風がふく毎に、ぱらぱらくずれて行った。私は何の感傷もなくそれ等の物体の不完全燃焼を眺めた。(後略)》

「私」の頭の中にあるのは「死」。以下エピローグより。
「私」は見るもので悲しみ、行うことでがっかりし、考えることで恐怖し、感情の動きで疲れる。「忘却」だけが自分を苦しめないと気づく。しかし、突然「記憶」を呼び戻さずにはいられない衝動にかられる。「忘却」を捨てようとしている。

《私は、死という文字が私の頭にひらめいたのを見逃さなかった。(中略)
 私は、だんだん鮮かに思い出してゆく。おどけた一人の娘っ子が、灰色の中に、ぽっこり浮んだ。それは私なのである。私のバックは灰色なのだ。バラ色の人生をゆめみながら、どうしても灰色にしかならないで、二十歳まで来てしまった。そんなうっとうしいバックの前でその娘っ子が、気取ったポーズを次々に見せてくれるのを私は眺めはじめた。もうすでに幕はあがっている。》

 久坂葉子19311952、本名川崎澄子)、神戸市生まれ。川崎財閥の一族(父方の曽祖父が川崎造船所創業者)、父方母方とも華族の家柄。諏訪山尋常小学校から神戸山手高等女学校卒業、相愛女子専門学校ピアノ科中退。49(昭和24)年『VIKING』同人、50年『ドミノのお告げ』が芥川賞候補。521231日、『幾度目かの最期』を書き上げた後、京阪急行(現阪急電鉄)六甲駅で梅田行き特急電車に飛び込み、自死。
 
 

 
 ふくろうは旅行のおみやげ。ありがとう。
(平野)

2016年5月28日土曜日

海の聖童女


 一色次郎 『海の聖童女』 
『展望』196712月号(筑摩書房)に発表、同年同社から単行本。70年『青幻記・海の聖童女』(けいせい)、74年角川文庫版発行。
 一色次郎19191986)、鹿児島県沖永良部島生まれ、本名大屋典一、幼時兵庫県加古川市郊外の一色で育つ。21歳のとき上京、佐佐木茂索(小説家、編集者。戦後文藝春秋社長)に師事。終戦前後、西日本新聞東京支社勤務。1949(昭和24)年「冬の旅」で直木賞候補。67(昭和42)年「青幻記」で第3回太宰治賞受賞。「海の聖童女」は受賞第1作。ドキュメンタリー作品に『日本空襲記』(72年、文和書房)がある。

『海の聖童女』
 主人公の中釜内市も沖永良部島出身、神戸製鋼所の熟練工、灘区水道筋で妻と娘カナと暮らす。4565日の空襲で妻が家の下敷きになる。
……軍需工場だけでない。爆撃のたびに、貨車の引込線のある六つの突堤はもちろん、船舶も被害を受けた。そして、無差別爆撃で市街も灰になった。斜面の神戸は、マキを積上げたようなもので、南風の強い時刻に焼夷弾をばらまくと、神戸の町は、まるで、焚火のように、あっけなくぼうぼうと燃えた。そして、人が死んだ。》
 妻は内市とカナを逃がすため舌を噛む。
 内市はカナを連れて故郷に向かう。列車を乗り継いで815日に熊本市の川尻駅に着くが、線路は空襲で寸断、鹿児島まで歩く。闇ルートの舟に乗るが、暴風雨で船長も同乗者も海に投げ出され、父娘だけが何週間も漂流して無人島に漂着する。舟に食料・衣類などが残っていて、島の豊かな自然の恵みで暮らすことができる。苦労して火をおこし、海水から塩を取り、ソテツで味噌を作る。1年後、台湾人が上陸、日本語で話しかけられた。島は台湾の東に位置していた。横浜にいたことがある李さんが島の灯台官吏になる。内市は希望すれば帰国できたが、島に残る。李さんが病気で台湾に戻り、内市はカナと灯台を守ることにする。
 
 
 内市が戦争についてカナに語る。子どもの時のケガで右人差し指が曲がらず、徴兵検査丙種合格で兵隊には行っていない。自分は戦争に関係ない人間だと思っていた。無人島の暮らしでその誤りに気づく。

……なる程わしは戦場には、出んかった。敵というても、顔がちっとばっかし違うだけで、おなじ人間じゃが、その人間、わしとおなじように、女房子供のおる人間、或いは、くにに、親兄弟のおる人間を狙いうちにするようなことは、せんかった。が、よくよく、思案してみると、わしが、敵に向わんでも、わしがつくったものが、敵を、撃ちよる。これじゃ、何もならん、おなじことじゃ。》
 内市は軍艦のスクリューや砲身を製造していた。優秀な工員だった。自分は非戦闘員だが、つくった兵器が敵の命を奪う、自分は空襲で命を奪われる。
……武器をつくる者が、一人も、おらんようになれば、戦争は、自然に、やんでしまうわけじゃ。(中略)社長は当り前のこと、事務員から現場、食堂のめしもりおばさんまで、大なり小なり、戦争遂行に努力してるわけになる。これだから総力戦というのじゃろう。(後略)》
 カナも真剣に耳を傾けている。島では金がいらない、食べものは手に入る、空襲にびくつくことはない、戦争のない天国みたいな場所、戦争を仕掛ける者もいない、船が通っても手を振らない、と。
 一色もあの815日鹿児島本線宇土駅まで歩いたが、故郷には行けなかった。日記に当日出会った父子連れのことを書いている。一色が声をかけても父子は反応しない。眠りながら歩いている。一色は小説を書くにあたって、自分があの父になり子どもの手を引こうと思った。
《今度は、どんなことがあっても、歩きつづけよう。かならず、カナをまもり抜こう。原稿生活約二十年、失職状態そっくりのなかで、家族を護り抜いた執念をこめて、この作品を書抜こう。私は書きはじめた。》
(平野)
 オランダ旅行者のおみやげ。マーストリヒトの本屋さん「ドミニカネン」の栞。「世界で最も美しい本屋」のひとつ。



2016年5月26日木曜日

三ノ宮炎上


神戸空襲を記録する会編集の『神戸空襲体験記 総集編』(のじぎく文庫 19753月初版)は市民の体験記をまとめる。野坂昭如の講演(7265日の神戸大空襲記念講演)、地図や資料の他、神戸空襲を書いた小説作品が4篇紹介(抄出)されている。
 井上靖『三ノ宮炎上』、一色次郎『海の聖童女』、武田繁太郎『炎上の街』、久坂葉子『灰色の記憶』。図書館や手持ちで3篇は全文を読めたが、武田未読。
 空襲の場面が描かれ、空襲と戦争が重要な意味を持つが、作品の主題は主人公の自我や家族への愛。

「神戸空襲」は何度もあったが、316日と65日は被害が大きく、「大空襲」と言う。
 
■ 井上靖『三ノ宮炎上』
 1951年発表。集英社文庫版(1978年、品切)、『井上靖小説全集 4』(新潮社、74年、絶版)、『コレクション 戦争と文学 15』(集英社、2012年、3600円+税)で読める。
 主人公はオミツ、女学校卒業前年の夏(昭和18)から不良仲間入り。ねぐらは三宮の中華料理店2階。不良たちは「人のいい連中」、強請・恐喝をやる者もいたが、大きな悪事はしていない。非常時でも不良はカッポしていた。

《戦争中で国全体が上から下までいやにちゃっかり組み立てられてあって、あんまり大きな事はできなかったようである。》

 オミツは他所の不良や「癇にさわる女」にケンカをふっかっけ、喫茶店に入りびたり、時々ブタ箱。
 オミツの亡父は軍医だった。その恩給で不自由なく暮らしていた。長兄は学生時代に左翼運動で検挙され獄中死。次兄は陸士卒、極右思想を疎まれ中国に派遣されて戦死。オミツは母を置いて家出。

《二人の兄を相次いで喪ったわたしの悲しみは深かった。わたしはほんとうに、二人の大好きな兄たちの遺骨の納められた家内には安らかに眠れなかったのである。わたしが二人の兄たちから共通して教わったものは、今考えれば反逆だけであったようである。二人の兄たちが自らの死をもってわたしに教えてくれたものは反抗であったのである。》

 戦時ながらオミツを「惹き付けて放さない何か」が三ノ宮には残っていた。

……舗道も店舗も通行人も、風も空気もみんな妙にきらきらして、快い眩暈の波がわたしたちを四六時中襲っていた。絶えず音楽が聞こえ、絶えず光の細片がちかちかと、あたりに舞っていた。眩しいほどの明るさ。(後略)》

 オミツは自由に遊ぶ一方、小説を読みあさる。仲間が実家の古本屋から持ち出してくる岩波文庫、女学校で禁じられていた恋愛小説、それに世界文学全集など。
 316日明け方空襲。「三時間ぶっつづけの焼夷弾の雨」。オミツは憧れていた男性の病死を知らされ、眠れなかった。

《空襲と呶鳴る声でわたしははっとして目を開けた。窓を開けると、戸外はもう真赤で、そのときはじめて気付いたのだが、ざあざあと砂を撒くような音が間断なくわたしたちの周囲に聞こえていた。(中略、仲間と避難。S百貨店地下から三ノ宮駅)
……わたしたちは三ノ宮駅の広場へ行ってそこへ腰を下ろした。焼けていないとなると、三ノ宮から離れる気持にはなれなかったのである。三ノ宮の阪急の駅の附近から加納町へかけて全然焼けていないことを知ったときは嬉しかった。》

 中華料理店が強制疎開になって、オミツたちは春日野道に移る。65日の空襲、B29の機械音と焼夷弾の落下音。高台から三ノ宮方面を眺めた。

《三ノ宮はおおかた燃え尽きてしまったらしく、燃え残っている建物を焼く火が、何カ所からも暗い煙を吐き出しながら、時折り赤い炎の舌をめらめらと天に向かって閃かしていた。
「いよいよ最後やな」
 と、オシナは言った。何がいよいよ最後か、わたしにはよく判らなかったが、その意味不文明な言葉に、妙な実感があった。わたしの胸を衝いた。》

 戦争が終わり仲間と別れた。

《とにかく、三ノ宮炎上とともに、みんな玉のごとくいずくかに飛び散って再び帰って来ない。(中略)わたしたちが好んで身を寄せ集めた、あのどこかひんやりしている、あちこちのビルの蔭も、わたしたちが日に何十遍出たり入ったりして倦きなかった三ノ宮独特の喫茶店も、もう再び現われ出て来ようとは思われなかった。もはや、そこは三ノ宮ではなかった。全く別の人種が住む新しい都会ができ上がろうとしていたのである。》

 オミツは仲間のその後の不幸を聞いて泣いた。母は亡くなった。家族のため仲間のための涙であり、自分のための涙。

《今でもわたしは三ノ宮を焼いた炎の舌の美しさを時々憶い出す。あんな美しく焼けるものの中には、やはり暗い時代に、美しいと呼ぶことを許されていい何かが詰まっていたのではなかったか。》

(平野)

2016年5月19日木曜日

書店ガール5


『ほんまに』第18号は神戸空襲をテーマにする。準備で、暗い話ばかり読んでいる。『ほんまに』では荷が重いかもしれないが、『ほんまに』なりに取り組みたい。

 そんななか、碧野圭『書店ガール5 ラノベとブンガク』(PHP文芸文庫)を通勤電車内と休憩時間で読み終える。私はライトノベルについてちんぷんかんぷんであるが、話の展開はスピーディーで予測もつく。
 今回の主人公は〈本の森〉取手店店長・宮崎彩加と〈共学館〉編集者・小幡伸光(本書メイン人物・亜紀の夫)、ニートのバイト君。ラノベ作家と編集者のトラブルがあり、ニート君を思いやる家族、いつものように書店員たちと出版人たちの連繋が描かれる。目標に向かって懸命に取り組む人たち。
 碧野の本への愛、本屋と書店員への声援に私も共感する。
場所は吉祥寺から離れて常磐線沿線。私はどちらにしても地理感覚なしです。
 
 

(平野)おっさんは、なろう系とかボーカロイドという用語がわからない。読むことはないからほうっておく。

2016年5月14日土曜日

これからの本屋


   北田博充 『これからの本屋 between reader and bookseller』 
書肆汽水域 1200円+税

《「たとえばこの世からすべての本屋がなくなったとしても、ぼくは本屋を名乗ることをやめないと思う」
 ぼくの大好きな本屋さんはそう言いました。なるほど、この世から本屋がなくなっても本屋を名乗ることができるのか……と訳もわからず感心し、それならぼくだってそういう生き方がしたい、と「本屋見習い」のぼくは思ったのです。
 それからぼくはずっと考え続けました。「自分はどうして本屋がしたいのだろう」「本屋じゃないとできないことってなんだろう」「そもそも本屋って何者なんだろう」云々。自問自答の日々です。(後略)》

 北田さんは1984年神戸生まれ。学生時代本屋(海文堂書店)でアルバイト。卒業後、取次会社入社、本・雑貨・カフェ複合店事業に携わった。今年退職して本書を発行。書店員、独立自営の新刊本屋・古本屋店主、フリーランスで本と関わる仕事人、元書店員にインタビューしている。

目次
第1章 ていぎする  エア本屋「いか文庫」店主 海文堂書店最後の店長 「本棚住宅」で本に囲まれて暮らす人
第2章 くうそうする  北田の「夢の本屋ガイド」
第3章 きかくする  新しい本の売り方を企画している人たち
第4章 どくりつする  新刊本屋「Title」 古本屋「SUNNY BOY BOOKS」 フリーランス書店員

《本屋というのは一体何者なのだろう。結局、答えは出ないままだ。でも、今なんとなく感じているのは、「本を売ること」だけが本屋を定義するものではない、ということだ。本屋という名称は「場所」をさす言葉ではなく、「人」さす言葉なのではないだろうか。》
 
(平野)
 エア店主、フリーの書店員という仕事。こんな本との関わり方もある。
 北田さんがバイト君時代、私はまだバイト担当ではなかった。彼はもう一人のバイト君と本屋大賞選考に参加した。確かノミネート作品全点を読まなければならなかった。歴代のバイト君たちは真面目で本好きの人が多くて、ほんまに安い時給で働いてくれた。

 

2016年5月8日日曜日

子ども闘牛士


 『竹中郁少年詩集 子ども闘牛士』 理論社 1984年初版 20012月第19
 解説「竹中先生について」 足立巻一

 竹中郁(190482)が生前まとめていた少年少女のための詩集、3回忌に供えられた。48年から竹中は「児童文化育成に後半生をささげる決心をし」(足立巻一)、月刊児童詩誌『きりん』を監修した。また、50年からは毎月子どもたちが詩を持ちよる「こども詩の会」で、一つ一つの詩を批評し、指導した。

竹のように
のびろ のびろ 
まっすぐ のびろ
こどもたちよ
竹のように のびろ

風をうけて さらさらと鳴れよ
日をうけて きらきらと光れよ
雨をうけたら じっとしてろ
雪がつもれば 一そうこらえろ
石をなげつけられたら
かちんとひびけ

ぐんぐん 根を張れ
土の中で その手とその手を
がんじがらめに握りあえ
竹 竹 竹 竹のように
のびろ
五月のみどりよ もえあがれ
 
 カバーの絵は竹中の「子ども闘牛士」。詩原稿には絵がなかったが、出版に際し竹中の絵を集めた。お孫さんに当てたハガキ絵が多数ある。
(平野)
 古書片岡で購入。片岡店主から季刊書評誌『足跡』第119号をいただいた。同誌はこの525日に創刊30年を迎える。
……海文堂書店の中央カウンターで、27歳の店員・福岡宏泰さんと38歳の客・片岡喜彦との出会いから始まりました。2人はそれぞれに、それまでの職場を退職。再就職、再出発してすぐの出会いでした。(後略)》

2016年5月5日木曜日

走れ! 移動図書館


 鎌倉幸子 『走れ! 移動図書館 本でよりそう復興支援』 
ちくまプリマー新書 20141月刊 2015.102刷 840円+税

 鎌倉は1973年青森県生まれ。1999年国際協力NGO公益社団法人シャンティ国際ボランティア協会入職、カンボジアで図書館事業や出版に従事し、2007年帰国。11年東日本大震災後、岩手県で本を届ける移動図書館プロジェクトを立ち上げた。
 シャンティの活動は教育・文化支援が中心。食糧支援・物資配布を優先するなかで、避難所の人たちから「本を読みたい」という声が聞こえてくる。鎌倉は「まだ図書館ではない」「本ではない」と気持ちを抑えていた。
 3月末に気仙沼図書館が館内閲覧のみで再開した。図書館の山口さんに会う。

《「こんな時だから、今、出会う本が子どもたちの一生の支えになる」(中略)
「食べ物は食べたらなくなります。でも読んだ本の記憶は残ります。だから図書館員として本を届けていきたいのです」と。電気のついていない薄暗く静寂に満ちた図書館に、山口さんの静かな、でも使命を帯びた声が響きました。その言葉を聞いた時、背筋がぞくっとしました。「まだ本ではない」と思っていた自分は、どれだけ本のチカラを知っていたのだろう。生きるために衣食住が必要なのは当たり前ですが、人々が困難な生活を余儀なくされた時にこそ持つ、本や図書館の存在価値を見出していなかったのではないかと自分を恥じました。》

 鎌倉は各地の図書館や書店の被害状況を調査し、自治体担当者と話し合い、6月遠野市に事務所を開設、7月から移動図書館を開始した。当初用意した本は、企業・団体からの寄贈と東京で購入した2万冊。「現地であるのであれば、現地で調達する」というのが基本。本の寄贈は原則断わり、募金をお願いして、リクエスト本は地元の書店で購入する。地元支援だ。
 鎌倉は、「図書館活動はイベントではありません」と言う。図書館は決まった日時に開館し、図書館と利用者双方が約束を守る。その繰り返しがあって、双方に「安心感・信頼感が生まれて」いく。
 シャンティは図書館を作る4要素を、(1)図書スペース(2)本(3)図書館員(4)利用者、と考える。鎌倉は、いちばん大切なものは図書館員=「人」、本や車は「人を介して活きるもの」と言う。
 図書館は読書のための施設という以外に、集いの場所、情報センター、記録の保存などの機能がある。

……忘れてはいけないのは「それは誰のためか」という問いかけです。(中略)
「誰のためか」の基礎にあるのが「なぜ図書館が必要なのか」という問いかけです。なぜ人は読書が必要なのか、情報が必要なのか、記録の保存が必要なのか。この問いに向き合う毎日です。》

 読書は教養や楽しみのためだけではなく、生活に必要な情報を得る目的もある。被災者それぞれの年代や生活の進行によって、必要な本=実用書が変わってくる。また、避難生活者には本を借りるために来ることが外に出るきっかけになり、ここで他の人と触れ合うことができる。子どもたちの居場所になる。人のために本を選ぶ人もいる。
 軽トラックを改造した移動図書館車3台が巡回。11年は13ヵ所の仮設団地、1310月には26ヵ所、本書出版時には約40ヵ所を回っている。
《本はチカラがある。》
 移動図書館で復興支援をする人たちはこの言葉を信じて活動している。
(平野)

2016年5月4日水曜日

本屋のおばさん&路上の本の虫


■ 52日「朝日新聞 朝日歌壇」より

四十年の本屋のおばさん終えました今朝も見ている三段八割  
宇都宮市 駒野弘子さん

選者・佐佐木幸綱の「評」
……「三段八割」は新聞の朝刊一面の書籍広告。毎朝それによって本の置き場所や積み方を変えてきたのだ。四十年の日々が凝縮された一首。(後略)》

「サンヤツ」と言われる小さな広告。
http://book.asahi.com/sanyatsu/index.html
 新聞に目を通す。広告見て、本に関係ある記事、地域版で地元の本をチェックして、訃報も……

■ ビッグイシュー日本版 VOL.286より
南アフリカ、路上の本の虫 ある若者が始めた放課後教室
 ヨハネスブルグの路上で古本を売る青年ドラドラ。虐待や暴力を受け、ホームレスになり、ドラッグ依存で精神科病院入院の過去を持つ。依存から生還して古本を売る。ドラドラは「無類の読書中毒」でもあった。自分の感想を添え、朗読や解説もする。
 現在「The Pavement Bookworm 路上の本の虫」というプロジェクトを立ち上げ、子どもたちのために放課後教室を開いている。食事、読み聞かせ、一緒に宿題など。活動資金は支援者からの寄付。
 彼の姿をユーチューブで見ることができる。ジョン・グリシャムやダン・ブラウンの本がある。

 
 286号の特集は「憲法のあした」。スペシャルインタビューはエルトン・ジョン。
(平野)

2016年5月2日月曜日

ガケ書房の頃


 山下賢二『ガケ書房の頃』 夏葉社 20164月刊 1800円+税


 2004年京都市左京区で山下はガケ書房を開業。多くの人が自動車の飛び出す外観を思い浮かべるだろう。本・CD・雑貨の品揃え、陳列方法は独創的。自費出版本を受け入れ、古本棚をつくり、ライブコンサートなどイベントを仕掛けた。協力者が多く現れた。雑誌の本屋特集には必ず登場する有名店になった。
 開業前の作業中のこと。

……いきなり店内に赤ちゃんを抱いて入ってきた人がいた。その人は真っ赤なコートにモヒカン頭。声は野太くよく通る。ヤバい人が入ってきてしまったと身の危険を感じた。その人は、「いつ、オープンなん?」といきなりタメ口で話しかけてきた。幾分構えながら、平静を装ってオープン日を告げた。すると、その人はとても親し気な笑顔で納得して出て行った。左京区という地域の洗礼を受けたような気がした。このあたりは学生がたくさん住んでいるが、そこにそのまま居ついたようなミュージシャン、学者、ヒッピー、革命家、何をしているか不明な人など、自由な人たちが普通に歩いている地域でもあった。ネクタイを締めている人はあまり見かけなかった。これから僕は、そういう社会からドロップアウトすることを選んだような人たちも相手にしながら商売していくんだなぁと妙な決意をした。》

 近隣の既存店との話し合いで、客層はぶつからないと理解され、逆に激励された。
 個人が本屋を開業し維持することは難事業だ。お金の問題。山下も貯金を切り崩しながら経営してきたが、銀行から融資(=借金)を受けるようになる。店を存続させたいが、借金という現実がある。思い、悩む。親しい作家に、辞めようと思っている、コンビニの深夜バイトでもして暮らす、と打ち明けた。

《「ほんなら、僕も小説で食べられへんようになったら、そのコンビニで一緒に働くわ。僕と山下くんが働いているコンビニやったら、絶対に面白いコンビニになると思うで」
 と言った。
 いつでもゼロに戻る覚悟がこの人にもあるんだと知ると同時に、その温かい言葉に僕はあやうく涙を落としそうになった。》

 2013年末で閉店と決めスタッフに伝えるが、再建話が持ち上がったりしながら、1年個人事業で続けた。その1年が重要な1年となる。ここは本書を読んでください。
 2014年、閉店宣言1年後、またスタッフとミーティング。

……今度は辞めるという後ろ向きな話ではなく、移転して改名するという話だ。(後略)》

 営業を終え、引越し作業、店舗の撤去工事。有志が手伝ってくれる。
 201541日、新店舗「ホホホ座」オープン。旧店舗から徒歩15分の場所。

《ホホホ座は、もう本屋を名乗らない。母体は四人組の編集グループ。店舗は〈やけに本が多いお土産屋〉と謳っている。それは、本屋に失望したのではなく、少し不便な場所にわざわざやってきて、体験ごと買って帰るという意味で、本も含めてすべてはお土産ではないだろうかという提案だ。(後略)》

 山下のまわりには常に人が集まってくる。力を貸してくれる。
 本書の帯に「京都、本屋さん、青春。」とある。山下が開業するまでの経歴も告白していて、「青春記」だし、未来を語っている。
 山下は本と本屋を愛し、「本屋」を名乗らなくなっても、やはり本に関わり、本の魅力を発信し続けている。

(平野)元町商店街WEBページ更新。拙文「海という名の本屋が消えた」は第30回に到達。
 ヨソサマのイベント
山下賢二『ガケ書房の頃』刊行記念トーク
56日 トンカ書店 要予約