2017年11月23日木曜日

365日のほん


 辻山良雄 『365日のほん』 河出書房新社 1400円+税

荻窪《本屋 Title》店主。Webページで「毎日のほん」を毎日更新、それに新刊紹介も行っている。
 私は本書をそれらの情報をまとめたものと思っていた。たいへん失礼いたしました。すべて書下ろし。本屋経営に加えて、連載やらインタビューやら引っ張りだこなのに、一体いつ寝ているの?

〈毎日、書店の店頭には数多くの新刊が入ってきます。日々、それに触れることを繰り返しているうちに、「光って見える本」が自然とわかるようになりました。著者の内にある切実なものをすくい上げ、生まれるべくして生まれた本には、はじめて見たときでも「ずっとこの本を待っていた」という気持ちにさせられるものです。そうした強い必然性を持った本は、ぱっと見ただけで、他の本とは違う輝きを放っています。〉

 装幀もサイズも本文インクも、かわいい! 爺さんが手に取っていいものか、すこし戸惑う。《考える本》《社会の本》《ことば、本の本》《文学・随筆》《自然の本》《アート》《くらし・生活》《子どものための本》《旅する本》《漫画》など柔らかくジャンル分け(複数のジャンルになる本も)し、春夏秋冬を考えて配列。
 たとえば11月は《考える本》、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』で始まる。
〈哲学は古くカビが生えたものではない。/哲学とはいつの時代でも、「どうやって人間らしく生きるか」を真剣に考えることだ。(後略)〉
 続いて、《アート くらし・生活》、『柚木沙弥郎 92年分の色とかたち』。
〈歳を重ねるごとに若くなる。自由に布のうえで舞い、踊る、色とかたち。/「芸術」や「民藝」といった大げさなことばのうえには納まらず、みずみずしい驚きを追いかけた人生。(後略)〉

 本を読むこと、選ぶことが楽しくなるよう提案してくれている。
《Title》店内を回遊している気分。
 
 

(平野)著者のお店で購入すると特典あり。

2017年11月21日火曜日

戦争育ちの放埒病


 色川武大 『戦争育ちの放埒病』 幻戯書房 4200円+税

 単行本・全集未収録の随筆86篇。


「本が怖い」

〈本屋にはわりに頻繁に出入りする。びっしり並んだ本を、ただ黙っていつも眺めている。ああいうときの、ふわッと自分が軽くなっていくような、とめどなくぼんやりして眠くなってしまうような気分が悪くない。〉

 本はあまり買わないが、あれこれ買ってしまう。でも、読まない。買って家にあるとページを開いて読んでしまう。本は読まないようにしたい。買って置いておくだけでも健康に悪いのに、読んでしまったらどうなるかわからない。作家になってから、「本を開けるのが怖い」。読み出したら萎縮して書けなくなると思う。

〈情けないが売文しなければ生活がおぼつかない。したがってできるだけ毒にも薬にもならぬことを記して、社会のお邪魔にならぬよう隅っこでお茶を濁している。が、ほかの人はそうではあるまい。本というものはそれなりに著者の力の結晶であって、そういう力感に私は出遭いたくない。私は何も見ず、何も聞かず、何も読まず、このままなんとかごまかして手早く一生を終えてしまいたい。〉

 色川は戦争ですぐ死ぬと思っていた。どんな死に方をするか、死ぬまでどう生きるかしか考えなかった。戦争が終わって生き延びた。歓喜と同時に、死んでいった人たちのむなしさを思う。

〈一度あったことは、どんなことをしても、終らないし、消えない、ということを私は戦争から教わった。〉

 色川の「戦後」は終らなかった。

(平野)

2017年11月18日土曜日

個展


ヨソサマのイベント

 竹内明久「モトコー切り絵展 犬の記憶。人の眼差し。」

11.142620日休み) モトコー2 プラネットEartH

故成田一徹のお弟子さん。元町高架下の人と店を描く。モトコーはJRの線路の下、再開発計画で存続の危機にある。


 


ギャラリー島田、毎年大人気の二つの展覧会、同時開催。

 石井一男展

11.2512.6 11001800 (最終日は17:00まで)

25(土).26(日)は930より整理券配布。


 

 須飼秀和展

11.2512.6 11001800 (最終日は17:00まで)

 

(平野)
 

2017年11月14日火曜日

港の人


 北村太郎 『港の人 付単行本未収録詩』 港の人 2200円+税

〈荒地〉の詩人・北村太郎(192292)の『港の人』(1988年、思潮社)を復刊。
 解説・平出隆、ケースの絵・岡鹿之助「古港」。

……家庭を捨てた北村太郎が、彼を労わる者たちの圏内からもやがて離れて、みずからを横浜という固有の都会の中へ解き放とうとする姿をとどめた詩集である。(後略)》(平出)

 


《むかし船員になりたいとおもったことがあった
いちばん下っぱの水夫がいいなとおもった
ペンキくさい底のほうで
労働するのはわるくないぞとおもった
そのころのぼくの愛読書はコンラッドで
なかでも『台風』とか『青春』とかの海の小説が気にいっていた
そんなのんきな夢は
とおいとおい昔のこと(後略)》
 QE2を見にやました公園に行く。船は「ごく静かに」「遅いような早いような速度で」出港していった。
「人生の一日はいつもあっという間に終わってしまう」
 帰り道、あの作家は船長の資格を持っていたことを思い出す。

(平野)
北村の詩集を社名にした出版社、本年創立20周年。

2017年11月12日日曜日

詩人なんて呼ばれて


 谷川俊太郎 尾崎真理子 
『詩人なんて呼ばれて』 新潮社 2100円+税


 谷川俊太郎評伝+インタビュー+詩21篇(書下ろし1篇)。

〇詩人になろうなんて、まるで考えていなかった
〇詩人は、全世界を引き受けようとするんだ
〇意識から出てくる言葉じゃない
〇滑稽な修羅場もありました
〇運がいいと、それを詩に書けるかもしれない

 尾崎は読売新聞編集委員、3年かけて谷川にインタビュー。谷川の生い立ちと詩人としての歩みに、時代と社会の動きを重ねて構成する。
 1962年から63年、谷川は週刊誌で社会世相を題材にした詩を連載していた。当時、高度経済成長が始まり、消費社会、土地、教育、労働、環境問題など現在につながる課題が芽生えていた。

……あの頃、詩を書いている人間の一種の敏感さみたいなものがはたらいて、自分の周囲の物事、とくに言語化されたものを全体的に引き受けようとしすぎて、それで疲れてしまったところもあった気がしますね。ふつうは皆、自分に関心のある、一部分だけ引き受けてるんだけど、詩人は全世界を引き受けようとするんだ。少なくとも、僕はそういうところがあるから、そうすると言葉にするのがもっと難しくなっていく。そのためのタクティクス、戦略みたいなものを自覚的に考えて切り開いていかないと書き続けられない。僕はその頃から時事的な詩を引き受けたり、歌詞を書いたり、脚本を書いたり。口語体の詩とかひらがなの詩とかいろいろな方向で、意識的に自分をオールラウンド・プレーヤーに鍛えようとしてきたって感触はありますね。》

「詩人なんて呼ばれて」
本当は呼ばれたくないのです
空と呼ばれなくても空が空であるように
百合という名を知る前に子どもが花を喜ぶように
私は私ですらない何かでありたい (後略)

(平野)詩人は私(1953年生)が生まれる前から詩人であり続けている。『鉄腕アトム』の主題歌でこの人の名を知った。「たにがわ」とずっと思っていた。

2017年11月6日月曜日

銀河鉄道の父


 門井慶喜 『銀河鉄道の父』 講談社 1600円+税

 宮沢賢治の生涯を父・政次郎の視点で描いた作品。
 

 政次郎は花巻の裕福な質屋の主で地元の名士。熱心な浄土真宗檀家であり、経典を読み込み、賢治が日蓮宗系の団体に入会して論争を挑んでも受け止めた。
 私は賢治の父に、封建的、わからず屋というようなイメージを持っていたが、この小説ではまったく違う。真面目で頭脳優秀、文化に理解があり、厳格であるが子どもたちに優しい。特に賢治は政次郎の大きな愛に包まれて育った。
 賢治は学校を出た頃から、飴を製造するとか、人造宝石を研究するとか、夢ばかり追っていた。政次郎は賢治に質屋を継がすことはあきらめたが、堅実な道を歩んでほしかった。教師になることができて、息子が「ふつうの、大人になれた」と思った。
 賢治も自分が「甘ったれ」だとわかっている。経済的にも精神的にも独立できない自分を責めた。俗物的野心はあるが、父の望むような生活は嫌なのである。家出して東京の印刷屋で働いていたとき、現実の自分に悲観し、将来の展望もないことを宗教者に相談したが、たいした応えはない。たまたま見つけた文房具屋で原稿用紙が目に入った。

《「あっ」/声が、家々の壁にひびいた。/胸腔内の熱い岩漿(マグマ)がガスを吹き出し、頭蓋を割った。/(これだ)/思うまもなく、頭蓋から、噴水のように溶岩がほとばしった。/溶岩とは、ことばだった。手でつかまえなければ永遠に虚空へ消えてしまうだろう一瞬の風景たち、どうぶつたち、人間たち、せりふたち、性格たち、比喩や警句たち、話の運びたち。》

 賢治は店にあるだけの原稿用紙を買い、下宿で万年筆を走らせた。1日で300枚の塔ができていた。内容は童話。走り書きだし、消した箇所も多いが、「質的にもこれまでで最高」だと思った。なぜ童話だったのか。小学校で先生が『家なき子』を朗読してくれたこと、妹に童話を書いてとせがまれたこと、自分が大人と良い関係を作れなかったこと、それは大人の世界からの「逃避」だったことなど、さまざまな考える。何よりも根本的だったのは、

《「お父さん」/賢治はなおも原稿用紙の塔を見おろしつつ、おのずから、つぶやきが口に出た。/「……おらは、お父さんになりたかったのす」/そのことが、いまは素直にみとめられた。/ふりかえれば、政次郎ほど大きな存在はなかった。自分の命の恩人であり、保護者であり、教師であり、金主であり、上司であり、抑圧者であり、好敵手であり、貢献者であり、それらすべてであることにおいて政次郎は手を抜くことをしなかった。》

 賢治は父のようになれないことはわかっている。健康不安もある。それでも「父」になりたいのなら方法はひとつ、「子供(わらす)のかわりに、童話を生む」、活字になれば読者もまた、「おらの、わらす」になる。花巻に帰らず、父とも顔を合わせず、東京でやってみようと決意した。ところが、妹の病状(結核)が悪化し、賢治帰郷。まもなく妹は死去。
 賢治も肺を冒され、またも政次郎が看病する。賢治が机に向かえないと嘆くと、政次郎は「あまったれるな」と叱咤。

(平野)M&J書店文芸担当者の推薦帯付き。
 賢治の死後、政次郎は孫たちに賢治の詩を読んで聴かせる場面、感涙。

2017年10月28日土曜日

うそつき


 野坂暘子 『うそつき My Liar 夫・野坂昭如との53年』 新潮社 1500円+税
 
 

 夜でも黒眼鏡早口酔っ払いの変なおじさんはコマーシャルソング作詞家、30歳。現役タカラジェンヌ、19歳。知人の紹介で交際が始まった。変なおじさんは東京からたびたび宝塚にやって来た。差し入れはダンボールいっぱいの即席ラーメン。六甲山頂の岩の上でプロポーズ。その時、もう嘘があった。山上からの景色を説明しながら、

《突然野坂さんが言う。/「ぼく、マツゲが無いんです、見てくれますか?」えっ? マツゲが無いって……怖い! 野坂さんはいつも外したことのない黒眼鏡をはずす。一瞬緊張が走る。/「アハハハ、マツゲあった!」/私は岩の上で笑いころげる。/野坂さんは真面目な顔をして私にプロポーズをした。/私は何故か急に涙が溢れて泣き笑いをした。》

 夫人が作家との思い出と共に、彼の素顔を語る。

《彼はとてもお行儀のいい人で、言葉づかいがまず綺麗。これは亡くなるその日まで崩れることがなかった。私は呼びすてにされたことは一度も無く、一般によく聞く、オイ、お前、風呂、お茶、云々は例えば「あなた、お茶を一杯淹れて下さい」という具合。結婚後しばらくは、何かぎこちなく、他人行儀の感もあったしオジサンくさくもあった。》

 野坂は軽佻浮薄、不良、目立ちたがり屋と思われがち。その反面、戦争をテーマに小説を書き、食糧問題に取り組んだ。

《気が小さい、気が弱い、ついでに僻み嫉み妬み、これはぼくのキャッチコピー。努力、忍耐、根性は到底似合わない、いつか人生のどこかで辻褄が合えばそれでいい、と私に語っていたあなた。酒の力を借りながらその都度いろいろなものを捨ててきたとも。浴びるように流し込んでいたアルコールも黒い眼鏡も隠れ蓑。嘘ばかりついていたら何が本当やら、気づけば狼少年が狼爺いになって本当に逝ってしまった。(後略)》

 野坂は嘘つきでアル中、ついに脳梗塞で倒れる。暘子は介護中も旅行に連れ出したり、原稿聞き書きしたり、それを楽しんでいた。故郷神戸にも連れて行きたかった。野坂本人は震災復興後の神戸を嘆いていたようだが。

他人事ながら退屈しない家庭生活だっただろう。本書には笑ってしまうエピソードがたくさんある。ヒモの話とか前世の話とか。でもね、生い立ちや戦争体験の話はやはり悲しい。すべてひっくるめて、〈野坂昭如〉。

(平野)『エロ事師』にも戦争の影がある。
〈ほんまにWEB》連載3本、更新しています。

2017年10月18日水曜日

南蛮美術総目録

 『南蛮美術総目録』 市立神戸美術館 1955

『みなと元町タウンニュース』連載原稿のために図書館で借りた本。A5判、375ページ、美術目録なのに図版なし。紙は藁半紙。

 神戸兵庫の大地主で池長孟(18911955)という人がいた。先祖代々の財産を南蛮美術品蒐集につぎ込み、美術館を建て、公開した。神戸の年配の方なら葺合区熊内町にあった〈南蛮美術館〉を覚えておられるだろう。

池長は、植物学者・牧野富太郎を援助し、地元の考古学者の資料を保存するなど、芸術、文化を愛し、高貴なる者の義務を心得ていた人。戦災から美術品を守ったが、戦後莫大な税金を課せられ、コレクション散逸の危機に陥った。神戸市に委譲を決意、蒐集品を整理・分類して目録を作成した。51年、池長美術館は神戸市立美術館になる。現在南蛮美術品は市立博物館に収蔵されている。重要文化財がたくさんある。

表紙の絵は南蛮船。
 

 

 数年前に消えた本屋の書皮を思い出す。もう一枚あったが見つからない。
 
(平野)
『みなと元町タウンニュース』は元町商店街あちこちの設置ラックで配布しています。

 

2017年10月17日火曜日

昭和文学盛衰史


 高見順 『昭和文学盛衰史』 文春文庫 1987年刊

1956年から57年『文學界』連載、単行本(全2巻)は58年文藝春秋新社から。



30年前の文庫、よく焼けている。

 高見順(19071965)は福井県生まれ、作家・詩人。ダダイズムなど前衛芸術運動、社会主義思想の影響を受け、プロレタリア作家となる。治安維持法で検挙され転向、従軍。戦後は病を抱えながら作品を発表し、日本ペンクラブの活動や日本近代文学館設立に尽力した。70年、高見の遺志により詩人に贈る「高見順賞」が設立された。
 本書では高見自身の足跡と共に昭和文学史を回顧。
 大正末から昭和初め、全国で多くの文学同人雑誌が発行されていた。作家も既存の雑誌に発表するのではなく、友と同人雑誌を始めた。高見は島木赤彦の歌を紹介して、若き日の文学への思いを伝える。

《 我等の道つひに寂しと思ふゆゑにいよいよますます友を恃(たの)めり
  はじめより寂しきゆゑに相恃む心をもてり然(し)か思はぬか》

文学の友。

《この世に生を享(う)けて、ともに、文学の道を歩んで行く友である。》

高見は「寂しと思う心」に郷愁を覚えるが、礼讃するのではない。「偉大な文学こそ、我等の道ついに寂しと思う、強い孤独のなかから生まれる」と考える。
 しかし、資本主義社会では芸術・文学は商品である。プロレタリア文学が「文学を商品としてしか見ない資本主義社会の悪を衝いた」。
 同人たちが対立、抗争、分裂する。

《恃む友、相恃む文学の友と、いわゆるイデオロギーの相違ということで喧嘩別れをせねばならなかった。昨日までの友を今日は敵と呼ぶに至った。これは喜劇であったろうか。悲劇であったろうか。》
 プロレタリア文学の台頭は昭和文学史の重大事項だが、こちらも内部で対立、分裂が起こる。

(平野)

2017年10月12日木曜日

幕末明治人物誌


 橋川文三 『幕末明治人物誌』 中公文庫 1000円+税

解説・渡辺京二

 橋川文三(はしかわ・ぶんそう、192283)は政治学者、著書に『日本浪曼派批判序説』(未來社)など多数。
 
 

明治という時代を見ることなく倒れた人、権力から外れた人、思想家、軍人、文化人、政治家、結社主宰者ら。歴史の本流ではなく、どちらかと言うと敗者の側にいる人物たちを取り上げた論文集。吉田松陰、坂本龍馬、西郷隆盛、後藤象二郎、高山樗牛、乃木希典、岡倉天心、徳富蘆花、内村鑑三、小泉三申、頭山満。

《歴史は主役だけで動くものではなく、蔭には無数の脇役の働きがある。後藤象二郎は準主役であっても、いまの人には耳遠い存在だろうし、小泉三申も知る人ぞ知るにせよ、いまとなっては無名に等しかろう。松陰や龍馬のような超有名人にまじって、今日忘れられたような人物に光が当っていることも、本書の今日的有用性ということになろう。》(渡辺)

 西郷隆盛は維新の英雄として現在も人気がある。しかし、歴史家の評価は芳しくない。「征韓論」が侵略思想の源流とみなされること、大久保利通らに比べて近代国家建設に貢献していないこと、を理由にされる。

 西郷下野、西南戦争は、明治新政府が西郷の理想と離れた結果という意見も多い。

《しかしそれなら西郷が維新にいかなる夢を託していたかといえば、直接にはわかりにくいところが多い。ただもし幾分の飛躍をおそれずにいえば、西郷はそこにもっとより(、、)徹底した革命を、もっとより(、、)多くの自由と平等と文明(、、)をさえ夢想していたかもしれないのである。》

(平野)

2017年10月3日火曜日

幕末  非命の維新者

 村上一郎 『幕末 非命の維新者』 中公文庫 1000円+税   

解説・渡辺京二



初版は1968年角川新書。

村上一郎(192075)、評論家、小説家、歌人。三島由紀夫事件後、自刃。本書には日本浪曼派・保田與重郎との対談も収録されていて、思想的には〈右〉の人だろうが、簡単に言えない。渡辺の紹介では、「英国流市民主義思想」「土着的ナショナリズム」「農本主義」のことばが並ぶ。戦後、村上自身が指針に、「米国的資本主義勢力駆逐」「共産主義革命」と書いている。渡辺は村上の思想を、《……日本の農村社会の生んだ精神の高潔、生の哀れを知る情緒のゆたかさ、仁義の二字に表わされる共同的正義感、……》と表現する。

書名にある「非命」とは、「天命でないこと。特に、意外な災難で死ぬこと」(『広辞苑』)。
 明治維新の後、国を指導した元勲たちのことではなく、志半ばで倒れた〈草莽〉9人の評伝。村上は、明治維新を文化・文政(1800年代初め)から始まると考える。登場するのは、大塩平八郎、橋本左内、藤田三代(幽谷、東湖、小四郎)、真木和泉守、三人の詩人(佐久良東雄、伴林光平、雲井竜雄)。教科書に出てくる名もあれば、初めて目にする名もある。吉田松陰、坂本龍馬、西郷隆盛(村上は「最大最高の維新者」と言う)は研究書が多いこともあり、本書では取り上げていない。収めきれなかった人たちもいる。

……維新者は、本質的に、涙もろい詩人なのである。維新者は、また本質的には浪人であり廟堂に出仕して改革の青写真を引くよりは、人間が人間に成るというとき、そのような設計図は役にたたぬことを知っているのである。維新者は、若々しい情熱を政治にそそぐこと、人後に落なかった。が、とど時務・情勢論の非人間性を知る者でもあった。だから、岩倉具視や大久保利通のようにはあり得なかった。友を失い、恋人を捨てて、やむなく政治に身を挺することはあっても、そのむなしさを知っているのである。彼は、時にニイチェのごとく哄笑する。が、その時も、こころは涙にぬれているのである。》

〈維新者〉の一基準として、村上は大塩平八郎の乱(1837年、天保8年)についての評価を挙げる。大塩は大阪奉行所与力を辞任して学者生活だった。大飢饉なのに、大阪奉行は将軍代替わり式典費用のため米を江戸に回す。豪商は米の値をつり上げる。大塩は困窮する庶民救済を訴え、幕政の腐敗を糾弾し、乱を起こす。

《たしかに、大塩の乱ははかない行動であった。そして、その思想は尊幕の範囲を出なかった。しかし、命を賭けてする行動というものは、かならず何かを残す。大塩の哀れな行動が、藤田東湖や吉田松陰に何を残したかは、それこそ、すこぶる見るものありであった。》

 大塩の乱で町民・農民たちは焼け出されたにもかかわらず、彼らによって大塩の思い=「社会正義の怨念」が語り伝えられた。

《ところが、大塩をほとんど評価しなかった明治維新の成功者たちはどうであろう。彼らが、大塩の乱の結果のはかなさを笑ったのは、彼らが時務情勢しか解しなかった者であることを、いみじくも示している。彼らのほとんどが、大塩、東湖、松陰のもっていた社会正義の念を置き忘れてしまったのである。(後略)》

(平野)「非命」「こころは涙にぬれている」、尊いことだろう。でも、やっぱり生きていてほしい。

2017年9月27日水曜日

落語と私


 桂米朝 『落語と私』 文春文庫 1986年 

初版は1975年ポプラ社。本書、古書うみねこ堂書林で購入、値段は鉛筆書き。最近は古本屋さんオリジナルのスリップが多い。
 
 

米朝師匠、お若い。芸を磨き、噺を発掘し、後進を育て、そのうえ〈落語〉という芸能を評論できる人。本書は中高生向けに書いたそうだが、内容は濃い。

〈話芸としての落語〉〈作品しての落語〉〈寄席のながれ〉〈落語史上の人びと〉
 落語の成り立ち、古典芸能のなかで他のジャンルとの違い、話芸としての特徴、噺の中味、歴代落語家のこと、などなど。

落語が、庶民の娯楽として山あり谷ありの時代を経て、現在は黄金期と言ってもいいかもしれないほどの人気を得ている。今、40数年前の本を読んで、落語の面白さを再認識する。

《落語は、古典芸能のはしくれに入れてもらいましても、権威のある芸術性ゆたかな数々の伝統芸能と肩をならべるのは本当はいけないのだと思います。「わたしどもはそんな御大層なものではございません。ごくつまらないものなんです」という……。ちょっとキザな気どりに思われるかもしれませんが、本来そういう芸なのです。》

米朝の師匠米団治の言葉。

《芸人は、米一粒、釘一本もよう作らんくせに、酒が()えの悪いのと言うて、好きな芸をやって一生を送るもんやさかいに、むさぼってはいかん。ねうちは世間がきめてくれる。ただ一生懸命に芸をみがく以外に、世間へお返しの(みち)はない。また、芸人になった以上、末路哀れは覚悟の前やで

 反骨、洒落。世間の常識におもねらない。廓噺や艶噺、酒飲みの噺、与太郎噺、嘘つきや不良の噺が堂々とできる。

(平野)
 先日、東西の人気落語家が近所のホールに来演。昼・夜二部制で、出演者が一人入れ替わる。私は昼席に。隣のご婦人二人連れが、お目当ての人気者が昼席に出ないと怒っている。どうもご招待できたらしい。良いメンバーです。楽しんでいただきたい。本音は「黙って聞けい!」ですが。

2017年9月26日火曜日

遅れ時計の詩人


 涸沢純平 『遅れ時計の詩人 編集工房ノア著者追悼記』 
編集工房ノア 2000円+税

 著者は大阪の出版社〈編集工房ノア、1975年創業〉社主。文芸書、詩の本を中心に出版している。本書は、涸沢が物故文人たちに贈った追悼の文章を集める。ただ文も年表も2006年まで。

……本書は、還暦の時、まとめたのですが、出版の決心がつかず、校正刷りのままほこりをかぶっていました。》

 書名の「遅れ時計の詩人」は清水正一(本書カバーの詩、19131985年)。市場で蒲鉾を作りながら詩を書いていた。ノアから、1979年に『清水正一詩集』(79年)、死後『続清水正一詩集』(85年)を出版。涸沢はたびたび清水を訪ねて、最終電車まで長居をしてしまう。清水は話し好きで時間が経つ。そのうえこの家の時計は常に遅れている。その時計をなおすことなく清水夫婦は暮らしている。

《この大幅遅れの時計が清水さんの詩であったのかも知れないと、今は思う。蒲鉾屋の時間を、詩人の時間にする時計であったのかも知れない。それと話し相手がついつい長居をする時計。》

 清水の一周忌に合わせ「偲ぶ会」が開かれた。後日涸沢が奥さんに写真を届けた。

《「お父さんがいたら、(会の後で)皆さんにここへ来てもらいましたのに……」/と奥さんは言われた。/奥さんはまだ、遅れ時計のまま暮らしているのだった。》
 


《さまざまな著者に出会った。たくさんの人が亡くなられた。/まず最初に出会ったのは港野喜代子。港野の人脈をたより、詩集『凍り絵』をだした。が半月後に突然死した。私はこの人のことを母とも思った。/十三の蒲鉾屋の詩人・清水正一のことは、父以上に父と思った。/桑島玄二、東秀三は、年の離れた、兄という思いであった。(後略)》

「やさしいおおきな伯父さん」足立巻一。「豪放磊落を装いながら、細かい気づかい」の富士正晴。「君といると気楽でいいわ」と言った庄野英二……

涸沢がゆかりの人たちを語ることは、そのまま〈編集工房ノア〉の記録である。

(平野)同社のPR誌『海鳴り 29』(2017年)では、一昨年亡くなった詩人・伊勢田史郎を追悼。

2017年9月12日火曜日

中原中也 沈黙の音楽


 佐々木幹郎 『中原中也 沈黙の音楽』 岩波新書 900円+税


著者は詩人、『新編中原中也全集』(全5巻・別巻120002004年、角川書店)責任編集委員。
 中也の最初の詩集は『山羊の歌』。死の直前、小林秀雄に託した第二詩集は『在りし日の歌』。「朝の歌」「言葉なき歌」という詩があるし、「歌」が多く登場する。音楽集団〈スルヤ〉の活動に参加したこともある。
 佐々木は、中也の自筆原稿、日記などから、推敲の様子、影響を受けた詩や哲学についての論考を読み解き、詩の創作過程を明らかにする。

《生きていた中原中也をこの手でつかむように目の前に浮かび上がらせたい》

中也の詩「雪が降つてゐる……」が1929年のノート(第一次形態)にあり、未発表のまま37年に加筆訂正(最終形)されている(詩集には入っていない)

「雪が降つてゐる、(改行、2字下げ)とほくを。」を繰り返し、後半「それから」を繰り返す。本書158~159ページ。


《……一人称以外の別の「声」が響き、詩の行が進むにしたがって、「とほくを」と「それから」が二重唱になり、三重唱になり、「声」が多重になるような効果を生み出している。最後に「喇叭」の音が響いてきても、それは一時的な響きで、無音のまま降る雪の、その沈黙の深さに吸い込まれるように、すべての音はかき消されてしまうような構造になっている。/最終形の二字下げの「とほくを」「それから」そして最後の「なほも」は、「雪」が降り積むさまであると同時に、「雪」そのものの「声」と言ってもいいだろう。同じ「声」が重なることによって、圧倒的に「雪」の無音(沈黙)が浮かび上がる。》

 最終形完成の前年、中也は愛息文也を病で亡くしている。日記帳に毛筆で、「戯歌/降る雪は/(1字下げ)いつまで降るか」と書き、大きく「」を書いた。あとのページは破られている。佐々木は中也の「明瞭な意図」と言う。

《「雪」は中原中也にとって比喩でもなんでもなかった。「雪」が宿命のように、あるいは不幸をも授ける恩寵のように中也のもとに降りてくるのは、詩のなかだけではなく、その詩を書く彼自身の生活にも及んだということ。》

詩集『在りし日の歌』の題名案は37年春までは「去年の雪」だった。他にも「過ぎゆける時」「消えゆきし時」「消えゆく跫音」なども考えられた。
その後の中也。
8月から9月にかけて『在りし日の歌』清書。
915日中也訳『ランボオ詩集』(野田書房)刊行。
16日関西日仏学館からフランス語教科書届く。
23日『在りし日の歌』「後記」執筆、15年の詩生活を「長いといへば長い、短いといへば短いその年月の間に、私の感じたこと考へたことは尠くない。一寸思つてみるだけでもゾツとするほどだ」と書いた。
26日、『在りし日の歌』清書原稿を、友であり恋仇である小林秀雄に手渡す。
佐々木はふたりの「沈黙の光景」を想像する。
《愛憎に満ちた長い友情の底にある「言葉なき歌」を思う。》
 
 10月22日中也死去。

(平野)今年は中也生誕110年、没後80年。《中原中也記念館》はこちら。
http://www.chuyakan.jp/

2017年9月7日木曜日

十五歳の戦争


 西村京太郎 『十五歳の戦争 陸軍幼年学校「最後の生徒」』 集英社新書 760円+税

 ミステリー作家が自伝的に戦争と戦後体験を語る。1930年生まれの作家(本名・矢島喜八郎)は陸軍幼年学校出身だった。

第一章   十五歳の戦争
第二章   私の戦後
第三章   日本人は戦争に向いていない

 昭和202月から中学生は軍需工場に動員された。食糧は不足し、空襲が激化。腹を空かした矢島少年はいろいろ考えた。19歳になれば皆兵隊にとられる、初年兵はやたら殴られるらしい、早くから兵隊になった方がトク、少年飛行兵募集の栄養補給十分・500キロカロリー多いの宣伝に惹かれるがすぐに戦場行き、陸軍幼年学校なら大将になれるかもしれない。
 310日東京大空襲、41日東京陸軍幼年学校入学。49期生で、これまでよりも人数が増えて360名。この49期生から学費免除、逆に給料月5円支給されることになった。

《私は、てっきり、エリートだから厚遇されたのだと、単純に喜んだのだが、全く違っていた。/本土決戦が近づいたので、私たちも、兵籍に入れられたということである。(中略)学生ではなく、兵士になったのである。》

 本土決戦、天皇を守る決意だったが、沖縄戦、広島、長崎……815日玉音放送、矢島少年が帰宅したのは829日。学校(兵隊)生活は5ヵ月だった。

 第二章では戦後まもなくの世相を紹介しながら、公務員生活、いろいろな仕事をしながらの懸賞小説応募生活を語る。新人賞、江戸川乱歩賞を受賞しても売れない時代が続いた。トラベルミステリーでの活躍が始まるのは乱歩賞から13年後、48歳。

 第三章は、体験から得た戦争・平和論〈日本人は戦争に向いていない〉。
 第一次世界大戦以来、戦争は巨額な戦費、戦車・航空機など大量の新兵器など国家総力戦にならざるを得ないのに、日本は精神論で作戦を立てていた。兵站(前線にいかに無事に食糧・兵器を補給するか)も真面目に考えていなかった。
 戦争に向いていない理由をまとめている。国内戦と国際戦の違いがわからない。現代戦では死ぬことより生きることが大事なのに、日本人は死に酔ってしまう。戦争は始めたら一刻も早く止まるべきなのに、日本人はだらだら続けてしまう、などなど。

《勝算なしに戦争を始めた。/敗戦が続いたら、和平を考えるべきなのに僥倖を恃んで特攻や玉砕で、いたずらに若者を死なせてしまう。/終戦を迎えたあとは、敗戦の責任を、地方(現場)に押しつけた。/戦後は、現在まで戦争はなかったが、原発事故があった。/その時も、虚偽の報告を重ね、責任を取ろうとせず、ひたすら組織を守ることに、汲々としていた。/これではとても、現代戦を戦うのは、無理だろう。/良くいえば、日本人は、平和に向いているのである。》
 
 

(平野)矢島少年はどうすれば一番トクか考えたが、指導者は最後まで精神主義だった。
 森村誠一、内田康夫、赤川次郎は新聞に投稿して、反戦・平和について持論を述べる。西村を含め皆ミステリー作家。殺人事件を扱うことは、証拠・証人など事実を論理立てて積み重ねていく作業が必要。被疑者は国家権力に拘束される。全体主義国家なら権力によって罪と罰が決められてしまうだろう。ミステリーは民主主義のもとで成長・発展すると言われるが、彼らはそのことを意識し、理解している。日本でもミステリーが発禁・絶版になった時代があった。
 西村の本名・喜八郎は当時日本一の金持ちと言われた大倉喜八郎にあやかった。神戸では「大倉山公園」の名が残る。

2017年9月4日月曜日

埴原一亟古本小説集


 『埴原一亟 古本小説集』 山本善行撰 夏葉社 2200円+税

 埴原一亟(はにはら・いちじょう、1907~1979年)は山梨県生まれ。
 私は初めて目にする名で読めなかった。戦前3度芥川賞候補になった作家。善行堂と夏葉社の発掘力を信じて読もう。

《本当に書きたいことを読者の目や編集者の目を気にすることなく、自分の気持ちだけを相手に語りかけるような書き方である。》(山本善行)

 古本や紙くずの臭い、人物たちの生活の匂いが染み出てきそうな文章。自然主義と言うのでしょう。
 
 

「翌檜(あすなろう)」は1942(昭和17)年「早稲田文学」に発表、第16回芥川賞候補作。主人公・島赤三は作家を目指しているが、屑の中から古本を探す稼業。これもセドリ。大企業が探していた鉱山の資料で大儲けしたことが忘れられず、ツブシ屋に通う。芥川龍之介のハガキを見つけたこともあるが、生活は妻の針仕事に支えられている。

……ツブシ屋と言うのは屑屋のその下で文字通りのツブシの紙屑屋で、いま一歩で釜で煮られると言う溜り場である。表紙のはがれた雑誌、古教科書、はがき、手紙、凡そ紙と名のつくものが、それぞれこの辺一帯の住民の体臭をぷんぷんと漂わせ、山と積まれている。甘酸っぱい、饐えた、黴くさい匂いが、ぷんと鼻腔を突く。赤三はそのなかに蹲り、獲物をさがす猟人の真剣さで、眼をかがやかし屑紙を丹念に撰り分けていった。そんなときの赤三の態度は悪臭など全く感じない風に背を丸くして、さんざ屑紙を撰って汚れた指先をなめなめさがすのであった。(後略)》

(平野)

2017年8月31日木曜日

WAR IS OVER! 百首


■ 南輝子 『WAR IS OVER! 百首』 ながらみ書房 2000円+税

 南は1944年和歌山県御坊市生まれ、歌人・画家。
 父は敗戦時ジャカルタの製紙工場勤務、現地住民が武装蜂起し、部下共53名が犠牲になった。事件は極秘事項となった。1980年、アメリカ公文書公開で明らかになり、遺体が発掘された。53体の骸骨。

《ばらばらに交じりあひ重なりあひ、崩れ溶けだし、なかば地へ還り、それでも生きたいとほりだされるのを待つてゐた骨骨骨。》(南はさらに「骨」の文字を連ね、犠牲者の慟哭を聴く)

南にとって敗戦・終戦の日は父親が殺された日で、戦争は終わらなかったし、戦後は始まらなかった。

《歳月やジャワ・ジャカルタの虐殺をひとに語りてさらにへだたる》

《はちぐわつは青空ばかり青空の底踏みぬいてもまたもや青空》

《生きかはらむ生まれかはらむ繋がらむ死者(WAR )(IS)生者( OVER、)(IF)( YOU)あはせて(  WANT IT.)

 201412月、南は歌会で沖縄訪問。同地の歌人の父は海で戦死、骨は探しようがない。沖縄の12月は真っ青な空、むきだしの太陽、半袖、サンダル、ゴムぞうり。国際通りの茶店でジョン・レノンの「ハッピー・クリスマス」を聴く。

《「あの時この海は血でまつ赤に染まつたさうです」。店の若い亭主が淡々と語る。急にジョンの唄に痛みが走る。/夏のクリスマスに聴いたジョンのパッピー・クリスマス――WAR IS OVER,IF YOU WANT IT. 私は忘れないだろう。》


 戦争体験者は亡くなっていく。その記憶を聞かされた世代は高齢化し、記録しか残らなくなる。その記録さえ隠されてしまう。せめて記憶を記録しておかなければならない。
 南は歌と絵で平和を祈る。

(平野)
 著者から本書と歌誌をいただく。感謝。