2017年3月30日木曜日

書店員の仕事


 『書店員の仕事』 NR出版会編・発行 新泉社発売 1900円+税


 
もうすぐ発売。NR出版会の「新刊重版情報」に7年半連載した〈書店員の仕事〉。59名が店頭から、本屋のこと、読者のこと、本のことを伝える。

……本書はすぐれた「読書論」の本としても、次代を担う若者に向けた「仕事論」の本としても、その他、読者の想像力次第で多様な読み方ができる一書になったと考えている。(中略)/本書の出版を通して、一般にあまり知られていない書店員という仕事が、どのような人たちの地道な努力によって支えられ、書店という空間が日々維持されているかを多くの方に知っていただけたらと念じている。そして、街の書店がこれまでと変わらず街のなかに存在し続け、現場の方々が生きがいをもって働き、創意工夫を発揮できる場としてあり続けることの一助となることを願ってやまない。》(新泉社・安喜健人「序」より)

長い連載期間中に、引退した人・廃業した人がいるし、新しい道に進んだ人もいる。出版不況、大災害にめげず、今それぞれの場所で本を販売している現役の書店員たちがいる。やっぱり「現役」がエライ!
 NR加盟出版社と事務局が書店員に執筆を依頼し、連載を読んだ書店員が感想を書いたり話したり、お客さんや他の出版マンに手渡したり、執筆した書店員に会いに行ったり、などなど「循環」が生まれた。

……この連載で書店員が投げたボールは一方向で途切れることはありませんでした。その一投で水面は大きく波打ち、あたたかな波は思いを同じくする書店員のもとに届いていたと感じています。書店の現場で真剣に本と向き合い、棚を通して読者と向き合う過程で、孤独に苛まれ忍耐を要するような壁に直面したときに、この連載が同じ方向を向いた同志の言葉として寄り添ってくれたのでは、と思っています。連載を重ねるにつれて書店員の輪が広がっていくのを感じながら、私たちは次の書店員にボールを手渡していきました。》(事務局・天摩くらら「結」より)

(平野)恥ずかしながら私も。「元」ではなく「当時」の表記で。

2017年3月28日火曜日

神田神保町書肆街考


 鹿島茂 『神田神保町書肆街考 世界遺産的〝本の街〟の誕生から現在まで』 筑摩書房 4200円+税
 

神田神保町は世界にも類のない「書物同業者街」(脇村義太郎『東西書肆街考』岩波新書1979年)。
 この街はどのようにしてできたのか。長年ここに通い、住み、歩き回ったフランス文学者が「社会・歴史的(ソシオ・イストリック)」に書く。「産業・経済・教育・飲食・住居等々の広いコンテクストの中に置き直して社会発達史的に鳥瞰してみようと構想」した。
『ちくま』に長期連載(全70回)、550ページ超
 
目次
 神保町という地名  蕃書調所の設立  東京大学の誕生  『当世書生気質』に描かれた神保町
 明治十年前後の古書店  明治二十年代の神保町
 神田の私立大学  漱石と神田  神田の予備校・専門学校
 神田神保町というトポス  中華街としての神田神保町  フレンチ・クォーター  お茶の水のニコライ堂
 古書肆街の形成  神田と映画館  神保町の地霊
 戦後の神田神保町  昭和四十~五十年代というターニングポイント

 神田神保町は関東大震災で大きな被害を受けたし、それ以前にも大火事で多くの古書店が焼けた。そのたびに復活した。太平洋戦争の空襲は奇跡的に免れた。鹿島は、空襲されたとしても、「無からたくましく立ち直ったのではないか」と考える。理由は本書を読んでください。
 そのことは別にして、鹿島は神保町の様子を植草甚一の日記から引いている。空襲下でも、古書店は営業していたし、洋書が数多く売られていた。
 古書街が空襲されなかったのは偶然だろうか。何らかの意思が働いたのだろうか。古都が爆撃されなかったような。そんな噂話も紹介されている。古書店の街が次第にサブカル・オタク化してきているらしいそうなったことも考察

(平野)
 神保町は神田駅が最寄りとずっと思っていた。初めてここに行ったのは社会人になってからで、その時は東京住まいの友人に連れて行ってもらった。40年ほど前。どの電車に乗ったかは覚えていない。だいぶたってひとりで行く時に、出版社の人がお茶の水駅で降りたらいいと教えてくれた。鹿島も高校生の時に初めて来て、神田駅で降りて、古書街にたどり着けなかったと、雑誌で読んだ。
 ほんまにWEB〈海文堂のお道具箱〉更新。

2017年3月26日日曜日

私のつづりかた


 小沢信男 『私のつづりかた 銀座育ちのいま・むかし』 筑摩書房 1800円+税
 

 小沢は1927年東京銀座西の生まれ育ち。小学校2年生時代の作文が現存していた。絵もある。80年以上前の小学生の作文に、小さな歴史がある。小沢は当時の記憶を蘇らせながら、世相や歴史を重ねてみる。

「花デンシャ」の作文は、昭和101935)年468日に運行した「満州国皇帝陛下御来朝記念花電車」を家族と見に行ってのこと。

「トホクワイ」は徒歩会、体力向上のための運動、昼食後学校から官庁街をまわり日枝神社をめざす。休憩をはさんで下校時間に学校に戻る。

 課題の作文と自由作文がある。課題では学校行事の「エンソク」もあるが、「海軍記念日」や「慰問文」など戦争の影が濃い。自由作文では、友だちのこと、夏休みの家族旅行、銀座界隈のことなど、当時のまちの様子・風景が読み取れる。

 小沢の父はハイヤー業を営んでいた。露地をはさんで自転車屋、その隣は洋食屋だったが引っ越して、そのあとに本屋ができた。

《父は、毎月の「主婦の友」と「少年倶楽部」を、この店から届けさせていたのかな。事務所の棚には「キング」や「日の出」や、挿絵つきの仏教説話本などもあった。雑誌も本もおおかた総ルビだったので、私は手あたり次第読んでいました。》

 裏通りには、ガソリンスタンド、芸者置屋、金貸し、小料理屋、魚屋……、記憶をもとに当時の地図も再現している。

「ボクハ、ツマラナイノデ、タタミノ、トコロデ、ネコロンデ、ヰルト、オカアサンガ、ソンナニ、タイクツナラ外ヘ、イツテキナサイトイツタ(後略)」

 小沢はこの作文を、人生最初の自由作文、と書く。

《幼い体中に満ちてくるなにかがあって、いっそ畳にぶっ倒れ、じたばたしていたのだな。母親にさえ「ソンナニ、タイクツ」としかみえなくても、当人はそれどころではなかった。だがこの七歳児の気持を、その後に相応の言葉数をおぼえたはずの私が、どれほど代弁できるだろうか。》

 子どもながら言うに言えないものをかかえ、銀座界隈を駆けまわって哲学していたのだ。

(平野)
ほんまにWEB〈奥のおじさん〉更新しています。

2017年3月16日木曜日

諧調は偽りなり


 瀬戸内寂聴 『諧調は偽りなり 伊藤野枝と大杉栄 上・下』   
岩波現代文庫 各980円+税

『文藝春秋』に1981年1月号から83年8月号まで連載、84年同社から単行本、87年同社文庫。
 
『美は乱調にあり』は大杉をめぐる妻、恋人、そして野枝の恋愛関係がこじれて、恋人神近が大杉を刺すという事件でいったん終わった。本書はその続編だが、執筆再開まで15年かかっている。寂聴は資料を集め続けていたし、調べるだけ調べていた。野枝、大杉、甥の三人が殺されるところまで書くつもりだった。しかし、連載中から殺害実行者の甘粕正彦憲兵大尉について「善人説」が数多く寄せられ、彼の実像をつかみきれなくなった。

 寂聴は、別の小説のモデルにした料亭の女将と、その作品舞台化で女将の役をする女優から思いがけなく甘粕との関わりを聞いた。女将は甘粕の恋文を所有している。彼が軍の命令で殺したことを直接聞いていた。女優は満洲脱出の際、甘粕から別れにプレゼントをもらうが、宝石と思っていたら、青酸カリだった。甘粕は翌日自決した。死に方、自殺の方法についても諸説ある。

《様々な伝説が死にまつわる程、甘粕という人間は多角面を持った複雑な人物であったのかもしれない。
 その上、甘粕たちの供述だけで、大杉たちの虐殺の模様も、真相は曖昧なままだったのが、当時の死体を検死した医師の診断書なるものが、半世紀ぶりにあらわれるという事件もおこっていた。
 私は、もう、「美は乱調にあり」の後編を書くべき時が熟したのだと思った。》

 神近の服役とその後、辻潤の放浪、有島武郎心中事件、大杉日本脱出、権力による主義者弾圧、虐殺とその真相を書く。理想に燃え、権力に歯向かい、熱く生きた人物たち。
 御年95歳の寂聴は青少年に向かって「青春は恋と革命だ!」とアジる。政治の話をして最後に「恋をせよ」と訴える。
 寂聴と栗原康(『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』の著者)の対談収録。

(平野)

2017年3月7日火曜日

脈 第92号


 『脈』 第92号 特集 島尾敏雄生誕100年・ミホ没後10年 脈発行所 1200円+税
 
 

 梯久美子『狂う人』を読んで、作家夫婦の〈狂気〉を知り重い気持ちになった。本書で子息の文章を読んで辛くなる。

《あんなにぼくや妹に失礼極まりないことをやっておきながら、おとうさんとおかあさんは死んでからも、生前そうであったようにぼくのお金や精神や肉体を奴隷のようにこき使います。いいえ、そんなことが負担になっている訳ではありません。彼らはまだ死んでいないかのように不気味です。》

 彼にとっては「文学に夢中の人たち」も迷惑な存在。

《哲学も文学も科学も、毎日を穏やかに生きるものには迷惑なのです。彼らは言葉を支える嘘に鈍感で、思い込みを表現としているらしいのです。あーむかつく。書けば書く程、自分が悪人になったようで、ちっとも憂さ晴らしにはなりそうにありません。
 そんな気分のぼくが書いたものさえ、文学のネタになると思うなら読んでくださるのでしょう。》

 脈発行所は沖縄県那覇市の出版社。地方小出版流通センター扱いだが、沖縄以外で店頭に置いている本屋さんは少ない。京都の三月書房にはある。

(平野)

2017年3月5日日曜日

「もうろく帖」後篇


 鶴見俊輔 『「もうろく帖」後篇』 編集グループSURE  
 2700円+税

 鶴見(1922~2015)は生前「もうろく帖」というノートをつけていた(1992年から2011年)。思索のための覚書あり、本や詩歌の抜き書きあり。ノートは計23冊で、第1冊目は『もうろく帖』として2010年に刊行された。残りの22冊も鶴見がまとめる予定だった。遺族の協力を得て『後篇』として出版する。

 《二〇〇一年八月二七日
私の方法。高い地位にあがらない。党派に所属しない。
そうすれば、人にはばからず、ものがいえ、
いえないときには、だまっていることができる。》

《二〇〇五年六月二五日
現在の課題。自分のもうろくのなかで、自分のもうろくを見きわめてゆく。
つきあいをさらにせばめて、ののしりにたいして反論せず。》

 これまでのこと、老いのこと死のこと、友人たちのこと、本の感想……

《二〇〇九年二月一四日
それにつけても金のほしさよ と下の句をつければ、万能ということを、こどものころ読んだ。
今、私には、死は近いという上の句が、何について考えても、ついてまわる。》

 ノートの最後は20111021日。
《私の生死の境にたつとき、私の意見をたずねてもいいが、私は、私の生死を妻の決断にまかせたい。》

 6日後、脳梗塞で倒れ、言語機能を失う。読書は続けた。2015720日肺炎のため死去。

 SUREの出版物は基本直販で、置いている本屋さんは少ない。申し込みはこちら。


(平野)

2017年3月1日水曜日

海の本屋ちらし


 2日間だけの 海の本屋復活スペシャル》ちらし出来

 
 




講演会は下記にお申し込みください。参加費はどちらも1000円です。
 
トンカ書店 078-333-4720 13時~18時 火曜・水曜休
 
(株)くとうてん 078-335-5965 10時~19時 土曜・日曜休
 

(平野)古書波止場、おかんアートもある。
んで、イラストのおっちゃんは誰やろ?